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華物語:蓮

 少女は、拾われ子だった。親切な豪商の主に、使用人にちょうどいいと拾われ養われ、そのまま育ち望まれるままに仕事をこなしていただけだった。
 なのに。
「最上の幸せをやろう」
 厳かな声に、少女は首を傾げた。
 金の瞳に、銀青色のうろこに覆われた姿は荘厳の一言だ。大きな龍が空に浮かんで少女を見下ろしている。長い髭がゆらゆらと宙に及び、右の爪には美しい宝玉がはまっている。
 その大きく美しく、高貴なる雰囲気をまとった姿はまさに神と呼ばれるに相応しい。
 けれど、少女はおじけづく様子はない。むしろ、淡々と声の主に顔を向けている。
 そうして、しばらくの沈黙ののち、
「要りません」
 晴れやかな笑顔とともに、少女は答えた。
 頭上高くから声をかけた主は、思っていた答えが返らなかったことに鼻白んだようだ。
「……なぜだ」
 不機嫌もあらわに、しかし不思議そうに声の主は、少女に尋ねた。
 少女もまた、不思議そうに首を傾げる。
「最上の幸せって、なんですか?」
「……あー……」
 神が空を見上げた。誰もを見おろし、誰からも見上げられる存在が見せるそのような様は、なんだか滑稽だった。
 思わずくすりと笑みがこぼれると、ぎょろりと大きな目がこちらを見てくる。金の瞳の中にある縦に長い虹彩は、こちらを射抜くように鋭い。
 不機嫌にさせてしまったかと一瞬見構えたが、すぐに違うとわかった。鋭い視線に怒りなどは見当たらず、むしろ照れ臭そうというか、ばつが悪そうだ。
 ますます人間らしい仕草に、とうとうたまらず少女は笑いだしてしまった。
「これ、そのように笑うでない。神を笑うとは、無礼すぎではないか」
「失礼しました。その、とても親しみやすい御方とお見受けしまして」
「口のうまいことだ。それにしても、みすぼらしい姿の割に、口の利き方もなっておるものよ」
 みすぼらしいと評されて少女は己の姿を顧みる。
 お仕着せの衣服は、端も擦り切れつぎをあてているが、元々の生地は良いものだ。だからこそ何度も手直ししても着心地はよいままに長持ちなのだ。
 使用人とて最低限の知識と礼儀作法を身に着けるべき、という屋敷の主の方針のもと、叩きこまれた応対力は、彼の神にもお気に召したようだ。
「ありがとうございます。貴き御方のお褒めに預かったと主が知れば、この上ない喜びになりましょう」
 慣れた仕草で礼を見せると、神の目は満足げに細まった。けれど、ゆらりと髭が揺れた。少し、不機嫌そうだなと少女は思う。
「うぬの主が喜ぶ、とな。うぬは喜ばないのか」
「もちろん、私にとっても、とてもありがたいお言葉です」
「なにゆえ、うぬの主の喜びを先に口にする」
 不機嫌そうな神の声は、どんどんと低くなっていく。なぜそのように機嫌を悪くするのか、何が気に入らないのかわからず少女は口ごもりながら答えた。
「私は使用人の身ですので、己の喜びよりも、主に与えられたものを褒められたことが嬉しいと思いましたし、主に伝えれば嬉しいと思うだろうと思って……」
「使用人は、己が喜びを感じてはいけないのか。いや、うぬはうぬの喜び、と言ったな」
 あ、髭が少し上向いた。少女はゆらゆらと揺れる髭を見すぎないようにと気を引き締めながらうなずく。
 髭がさらにぴんと立ち、先っぽの揺れがますます大きくなる。風ではなく、この神自身の意志、というよりも感情で動いているのだ。
 少女のうなずきに、神はそうかそうかと顔を大きく動かした。その相好の崩しっぷりに、まるで孫の成長を喜ぶ祖父のようだなと思ったが、口にはしない。
「はい、貴き御方にお褒めの言葉をいただくのは、私にとって最上の誉れと存じます。さらに、私がお褒めいただいたことは、主から与えられたものがもとになっているのですから、主が喜ぶのであれば私にとってさらに喜ばしいこと、ということです」
「うぬは、面倒な物言いをするな……」
 神が呻きながらこぼした言葉に、そうですか、とうなずく。
 確かに、いつも周りにはもうちょっと簡単にものを考えられないかと突っ込まれるなと思い返す。
「しかし、私はそれほど欲張りでもないのです。元々お申し出をいただくつもりもありませんでしたが、貴き御方にお褒めの言葉をいただいただけでもう十分な気持ちになりました。なので、改めて先ほどのお申し出は謹んでお断りいたします」
「覚えておったのか」
「はい。とんでもないお申し出でしたので。きちんとお断りせねばと考えておりました」
 それにしては初めの返事からして早すぎだったがな、という神のぼやきは聞こえないことにする。
「生意気な小娘よ。使用人というものは皆そうなのか」
 少女は首を傾げて数秒、首を振った。
「いえ、私くらいかと」
 ほかの同僚を思い浮かべても、みな心優しく親切で、自分のようにおかしな物言いをする者はいないのではないかと思う。
 そう伝えると、神ははて、と厳めしくも神々しい顔を鬚ごと斜めに傾けた。
 玉を掴んだ右の爪が、ついと少女の背後を示す。屋敷の庭にしつらえられた蓮の花の浮かぶ池のそばに、小さな祠があった。さきほど少女が埃を払い拭き清め、季節の花を飾ったばかりだ。
「心優しくもなく親切でもない者が、朽ちた神域を清めたというのか。さて、不思議なものよ」
 くつくつと楽しげに神が笑いながら、少女の眼前までその身を下ろしてきた。
 巨大な姿が目の前に迫る様は恐ろしいように感じ、つぶされそうてしまいそうと思いながらも美しい金の瞳からは目を離せず、じっとのぞき込む。
 笑いながら迫る神は、少女の顔面にのしかかる直前。一瞬で止まった。
「ほ。うぬの驚いた顔はなかなか興味深い」
 楽し気な様子で神は笑い、少女の肩にふわりと乗った。城ひとつをゆうに上回る龍の姿をした神は、今は少女の手のひらに乗るほどの―――ネズミよりも少し大きいくらいか―――大きさに姿を変えていた。
「何をお考えでいらっしゃる」
「なぁに、朽ちて久しい神域を清めて我が復活の力を与えてくれた巫女に、褒美をくれてやろうと言っても要らぬと言う。けれど、我は礼をせねば気が済まぬし理からも外れてしまう。ならば、我が自ら加護を与えてやろうと思うての」
 え。と少女の口から心底嫌がる色を帯びた声が漏れた。
 神は機嫌よく呵々と笑い声をあげる。
「そんな顔もするのか! さきほどまでの能面のような顔よりそのような顔のほうが好ましい。どれ、もっと見せてみよ。我が巫女よ」
「嫌です見せたくないですし私は巫女ではありません」
 手で肩を払うが、そのたびにひょいと反対側の肩に乗り移られてしまう。すばしこいことこの上ない。
 先ほどまでの神々しい様はどこに行ってしまったのか。うっとうしい。
 ちょっと気になるなと思って小さな祠を掃除しただけなのに、なんでこんなことに。
「知っておるか。あの祠はな、巫女の才と清らかな心がないと見ることさえかなわんのよ」
 少女の思考を読み取ったような口ぶりで、神は楽しげに言い放つのに、少女は思わず押し黙り、目を見開いた。何を言い出した、こいつは。その様子に、神はますます笑った。
「これからよろしく頼むぞ、巫女よ」
 巫女と呼んでくれるな、と少女は思ったが、それ以上にこれまでの平穏で地味で無難に生きてきた生活が、大きく変化してしまうことに気づいて額に手を当てた。
「頭が痛い……」
 巫女と呼ばれようとも、少女はいまはただの使用人だ。自分にとって重すぎる役目を手放したいばかりで、肩に乗ってご満悦な様子の神に問う。
「……解放していただくのが、いちばんの幸せなのですが……」
「無理だな」
 即答。どうして、と後に蓮池の龍神の巫女と呼ばれることになる少女は空を仰いだ。
 ただ、澄んだ青い色が視界いっぱいに広がっており、肩から飛び上がった小さな龍が楽しそうに宙返りしているのが見事だなと思うしかなかった。


7月3日、7月8日、8月15日、9月26日誕生花
花言葉は「清らかな心」「神聖」「離れゆく愛」「雄弁」


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