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文披31題:Day14 さやかな

 いつか海に、一緒に。
 それは小さな提案。二人の間に交わされた約束は、小指を絡めただけの、確固たる形はないものだった。
 けれど、二人にとっては心の奥底で光り続ける宝物のように残っていて、時折二人きりになると、ラベンダー色の瞳は期待に満ちて彼を見つめていた。
「ねぇ、海に行くのよね」
 彼女が聞きたがっている返事はこうだ。
「ああ。いつか、一緒に」
 すると人魚の彼女は嬉しそうにふふふと笑って、海水に満たされたプールに潜ってぐるぐると踊るように泳ぎ、しばらく戻ってこない。今や彼女の腰を過ぎるほどに伸びた髪は過ごしたときを示すもので、深く潜っていても差し込む光にきらめいて彼女が水中のどこにいるかを教えてくれる。
 研究所に属して数年、その後に彼女の担当になって、彼女を担当する前の勤務年数の倍は時が過ぎた。と言っても、成人してすぐにここに所属しているため、所内においてはまだまだひよっこ扱いされがちではある。
 けれど、彼女が住む場所、海に対する魔法を扱える者として、自分は研究所では大事な存在なのだろうなとは思っている。なにせ、飼育する人魚の教育と観察をするにはもってこいの人材だ。
 彼女が自分に対してほかの人間ほど警戒心を抱かないのも、彼女が海に属するものであり、その気配を自分に感じているからだろう。
 ひとしきりプールを泳いできた人魚は水面に上がるとにこりと笑いかけてきた。少しも息を切らしていないのは、水陸で呼吸方法が変えられるからなのだと、彼女が教えてくれた。
 ラベンダー色の瞳に自分を映して微笑む人魚は、もともと人魚がみなそうであるのと同じく、美しい姿をしている。ただ、初めて出会った頃よりも時を重ねて、さらに美しくなっていっているのは間違いない。
 陽光が差し込むプールで暮らしているというのに一切日焼けしない白い肌に、うっすらと紅色が差している。
 その様子に意味があるのではと考え込むようになったのは、上司の言葉があったからだ。

 幼体から成体になってきた証だと、研究所で上司が言ったのは、数か月前のことだ。
「あの幼体は、プールで生まれて後、健康に育ち、精神状態も安定している。いままでの傾向から察するに、そろそろ繁殖期を迎える頃だと考えられる」
 『養殖人魚』の誕生に多大な貢献をもたらしたのは彼だ。その彼が言うならば、間違いないだろう。
 そして、上司は腕組みをして続けた。
「人魚は繁殖期を迎えると、伴侶を見つけようとする。それは人間でいうところの恋をしようとする、というのがふさわしいのだろうな」
 恋、と繰り返すと、あの幼体はどうしたものか、と上司は続けた。
「あの人魚は、ほかの人魚に会わせたことがない。繁殖期を迎えてどんな反応を見せるか興味深い反面、何が起こるかわからない。しっかり観察するように」
 はい、と返した自分がどんな顔をしていたのか、上司は肩を叩く。
「あれは観察対象だ。忘れるな」
 どんなに美しくてもな、と小さく付け加えられた言葉には何も返すことができなかった。

 人魚は繁殖期を迎えると「恋」をしようとする。人魚としての種を残すために行われるそれは、人間のものとよく似ているのではないか。
 ラベンダー色の瞳の人魚は、生まれたときから親である人魚から引き離されている。だから、自分以外の人魚を見たことがない。そのまま繁殖期を迎えた場合、どうなるのか。
 彼女は人間としか触れあっていない。しかし時が経ち、成体となり、本能は種を残そうと働く。
 そうなれば、彼女が「恋」をするのは。
 それすらも研究対象のひとつだったと気づいたときには、もう遅かった。
 箱庭のように外界から遮断された生を強いられ、それに疑問を抱くことすらないように整えられ、限られた機会に閉鎖的な空間で交わされた小さな約束は、彼女の心の深いところに楔となって埋め込まれてしまった。そうなれば、彼女が本能的に何を選ぶかは必然だ。
 研究所は、何を求めているのだろうか。
 人間に恋をした人魚のおとぎ話は聞いたことがあるが、あれは「自分で人間を選んだ」人魚だ。彼女とはまるで境遇が違う。
 自分がその対象としてうってつけだったのは間違いない。だが、せいぜい能力をありがたがられているだろうなという予想と、いつか別の人魚が宛てがわれると考えていただけに、気づいた衝撃は大きかった。
 人魚が人間に恋をして、その恋を失ったときにどうなるのか。あるいは、やはり同族の人魚を求めるのか。それとも単体生殖をするのかもしれない。
 そういう研究をしているのだと、ここはそういう場所なのだと、わかっていたはずなのに。
「大誤算だな……」
 研究所も、自分も。
 人魚はただ、人魚としての生を歩んでいるだけだ。そこに人間の思惑など入りようがない。手を入れようとすること自体が傲慢なのだ。
 だから、これからすることは、この大誤算を違う形に昇華することだ。
「ねぇ」
 声に気づいて薔薇色に染まる頬に、指を伸ばす。なんて蠱惑的なのだろう。彼女のすべてに、恋焦がれているのだと自覚してしまえば、転がり落ちるように納得する自分がいる。
「いつかじゃなくて、今、行こうか」
 海へ、というとラベンダー色の瞳が嬉しそうに潤んで、頬と同じ色の唇が是と返す。
 ここからは、研究所のみが味わう大誤算だ。
 海に住む人魚が海に惹かれるのが当然のように、海の魔法使いもまた、海を求めるのだ。
 頬に添えた手に手を重ねてすり寄ってくる彼女の唇に、自分のそれを重ねると、嬉しい、とかすれた声が返った。
「こうしたかったの。ずっとこうしてほしかったの」
 ぐい、と首に腕が回されて海水のプールに引き込まれる。いつかの問いに、今なら応えられる。
「今なら、僕は海の中でまばたきできるし、呼吸もできるよ」
「知ってるわ!」
 プールの中で踊るようにくるくると泳ぎながら、魔力で海水に働きかけると、思うように従ってくれる。
 海水が竜巻のようにプールに立ち上ると、人魚と人間は水流に乗って研究所内を飛び出していった。
 人魚と魔法使いが研究所の外、海に飛び込むと、魔法の範囲外となった水流は勢いをなくし、海水がプールとその周りに降り注ぐ。スコールのように大粒の水が地面と水面をたたき、大きな音が響いて所員が駆けつける。
 プールには人魚はおらず、世話役を務めていた海の魔法を使う研究員がいなくなったと、研究所は慌てた。研究所は消えた人魚と研究員を見つけるべく捜索したが、誰にも彼らを追うことも、見つけることもできなかった。
 
「お母さん」
 小さな人魚が、甘えるように母親の人魚に近づいて、舌足らずな声で聞く。
「お母さんは、お父さんと海じゃない場所にいたんだよね。どうして海に帰ってこようと思ったの?」
 二人でいたから、そこでも良かったんじゃないの、と無邪気な問いに、母親の人魚は微笑んだ。
「お父さんとお母さんはね、一緒に海に行こうって約束したのよ」
 娘の人魚に伝えた人魚は、ラベンダー色の瞳を夢見るように潤ませて愛娘の髪をなでた。
 初めはささやかな秘密で、だけど、ほんとうの幸せだったのよ、と心の中でつぶやいた。

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