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第九節 天狗

 ジャパンフットボールリーグという荒行と呼ぶに相応しい長きに渡る戦いが終了した。休息すらなく第七十四回天皇杯全国サッカー選手権大会が目前に迫っている。
 セレッソ大阪一色といってもいい一九九四年のぼくのセレッソライフは、たくさんの喜びとわずかばかりの悲しみとを携えながらもう少しだけ継続されることになった。
 長い旅の途中で次々と悲喜交交というビスケットがぼくのポケットに押し込まれている。童謡のようにパンパンとポケットを叩いたなら、果たしてビスケットは増えるのだろうか、それとも見るも無残に砕け散ってしまうのだろうか。
 そんなことはわかるよしもない。お偉いさんの冬のお歳暮のように続々と届くお菓子の山々が、今にもこぼれ落ちそうになっていた。だけどぼくのポケットはそれほど懐が大きくもない。それ以上に、大量のお菓子を突っ込める隙間など、とうの昔に無くなっている。
 来年Jリーグで戦うことになったというのにどうでもいい話ばかりが転がり込んできた。そのたびにビスケットを食べ過ぎて食傷気味な心と食べかすだけが足元にこぼれ落ちる。ときに捨てる勇気って必要なのだな、とぼくはそう思いはじめていた。
 四日市でおこなわれたコスモ石油(そういえばあのドタバタ劇だったコスモ石油との開幕戦も今となっては遠い過去のように思えてしまう)との最終戦に勝利した。
 すでにJリーグ昇格の目安である二位以内の確定とJFL優勝。当初の目標どおりセレッソ大阪は見事にダブルを手に入れた。
 試合終了後にピッチレベルに降り(といっても柵を越えるだけのこと)、監督や選手たちと一緒に飛び跳ねながら”誇り”を歌った(この輪の中にあの一号棟六階のおじさんがいるかどうか探してみたけど、最後の最後まで見つけられなかった)。すべてがキラキラする瞬間だった。
 三重から大阪へと戻る名阪国道のバスの車中は、あられもない姿の老若男女と大量の酒で溢れかえった(そのせいで何度もバスを止めては誰彼なく宴の傷跡を道路脇に残した)。
 よくも悪くも生涯忘れることはないだろうと思いながらも、年末年始に繰り広げられる死闘が頭を離れなかった(ダブルや二冠という上の句と、どんちゃん騒ぎという下の句はまるで表裏一体だ。いつかJリーグでふたつのタイトルを同時に獲得したならば、同じような祭りが開催されるのは間違いないだろう)。

 ここからが本当の意味での昇格試験である。JFLではとにかく結果が必要だったけど、クラブにとってもぼくにとっても天皇杯は格好の腕試しと言えた。
 一回戦の駒澤大学に勝てばそこから先はすべてJリーグクラブとの戦いになる。よそいきの応援をするつもりなど毛頭なかったし、Jリーグクラブとはいえどもオオサカスピリッツさえあればなんとかなると思ったりした。
 ガンバ大阪とセレッソ大阪のダブルヘッダーという馬鹿げた一回戦(もうこんなことは起こらないようにしてもらいたいものだ)に辛うじて勝利した。
 そのあとも鹿児島でヴェルディ川崎に、福岡で浦和レッドダイヤモンズに、そして神戸では横浜マリノスに。セレッソ大阪は三つのJリーグクラブを立て続けに撃破した。
 ただし、撃破とは勝者による都合のいい解釈だ(だいたいの場合、歴史は勝者によって書き換えられるものだ)。
 実際のところは試合内容で完全に圧倒されていた。そのうえ、この三試合を戦うたびに、選手はもちろんサポーターのテンションさえも空回りしているような気がして、不安ばかりがぼくの胸をよぎった。
「勝っているんとちゃう。勝たせてもらっているんや」
 ぼくが幾度となく叫んだとて、サポーターどころか仲間にすら届かなかった。どこのスタジアムに行っても対戦相手のサポーターから温かく受け止められ、来たるJリーグへの歓迎の言葉で溢れた。
 結局のところ、セレッソ大阪もセレッソ大阪サポーターも、せいぜい”お客さん”としてしか見られていなかったのだ。

 明けた一九九五年元日。天皇杯決勝戦。まさにその不安は年始早々的中してしまった。
 国立競技場のゴール裏に陣取ったセレッソ大阪サポーターをぼくは見渡した。一目瞭然。浮かれ気分なのがすぐにわかる。
 そういう自分自身が浮き足立っていることに薄々気づいていながらも、盛りあがった状況に水を差すわけにはいかないと考えてしまっている。どこまでも浅はかで軽率だった。
 そんなふわっとしたテンションのまま試合に入ったわけだから案の定サポーターの言動がダイレクトに試合に伝わる。ホーム側のスタンドの雰囲気がおかしな方向へと引き寄せられていく。
 ぼくの力ではその嫌な流れを最後の最後まで止められず、気がついたときには鳴り響くタイムアップの笛を聴く耳しか機能していなかった。
 ぼくらは負けた。相手にだけではない。自分自身にも完敗してしまったのだ。三連勝なんてものは何の意味も成してはいなかった。
 唯一なにかを手に入れたのだとしたら、それはただの天狗のお面だけだ。表現し難い、長く伸びた鼻の目立つ仮面。恥ずかしさやらなんやらでぐちゃぐちゃになっているぼくの顔をそれが覆い尽くしている。
 ともにサポートしたゴール裏のサポーターから「お疲れ」と声をかけられた。
 いったいなにに疲れたというのか。思いあがりも甚だしい。見事に鼻をへし折られた天狗のお面の男の顔。なにひとつ成し遂げられない自分自身をぶん殴って、多分血まみれだろう。
 ただただ苛立ちを隠せないまま、お面の裏側に魔縁に満ちた表情を作ることだけで精一杯だった。
 口では散々偉そうに「試合を動かすのはサポーター」だとかなんとかいってきたにもかかわらずこのザマだ。新しい年なのに。しかも、その初日なのに。
 途端に恥ずかしくなって不祥事を起こしたタレントのようにこのままどこかへ消え去ってしまいたかった。そんなことが許されるはずもないのに。
 犯した罪はみずからの心と身体で償わないといけない。皮膚という皮膚に、精神という精神につけられたこの痛みをけっして忘れてはならない。ぼくはそう心に強く誓った。
 反面、このファイナルで勝てなかったことがセレッソ大阪への新たな愛情の積みあげになったのも事実だ。
 それは誰にも気づかれることなくひっそりと生まれる痛みをぼくにもたらしてくれた。爪のささくれのような、という表現がもっとも正しい解釈だと思う。
 大阪までのバスの中で、誰も見ていないことを確認し、ぼくはひとしきりメモを書いた。知らぬ間に荒れに荒れた右手が持っていきようのない感情を書き留めていく。まるで狼の遠吠えのようだった。

 セレッソ大阪は無事、Jリーグ昇格の承認を受けることができた。ぼくは安堵した。JFLのライバル、柏レイソルも一緒に承認された。関東と関西ということもあり同期感はまるで皆無だけど、それでも同じ一九九五年の昇格なので意識しないわけにはいかない。
 オリジナル一〇(神一〇とも呼ぶべきか)以降のクラブとして、ジュビロ磐田、天皇杯決勝で完膚なきまでに叩きのめされたベルマーレ平塚、そして前述の柏レイソルに続き四番目となった。
 ラッキーナンバーでもなんでもないこの数字にどこか愛着が芽生えた(なぜなら四という数字は謎めいているのだ。一、二、三、と来て四。なぜか四は画数が五。そのくせ五は四画なのだから。数字とは実に奥深い)。
 この先、ジャパンフットボールリーグ優勝という称号は何のアドバンテージにもならない。茨の道が続くと思うと条件反射的に身体がブルブルと震えた(そういえばぼくが一五歳のときに死んだ祖母がさももっともらしく言っていた。
「正しく生きなさい。南北朝の頃に逃げ落ちたんやけど、うちの家系はれっきとした武士の出なんやから」というよくわからない小言。どうつながっているのか脈絡はないけれど、これらが我が家に伝統として残る武者震いと呼んでいい類のものだとぼくは勝手に決めている)。
 サッカーの質、選手の質、サポーターの質。自分に都合良く切り取ったとしても、Jリーグでの戦いは薄氷の上に立っている以外のなにものでもないはずだ。年末から年始にかけての冬期講習というレッスンが頭をよぎる。
 結果的に我らセレッソ大阪が勝利したわけだけど、サポーターの質なんてものは雲泥の差だった。
 三対ゼロ以上の差をものの見事に見せつけられた気分になったのを思い出してしまう。現場を体感した者しか感じることのできない殺気。そのときはその場で跪いてしまうかのような感覚が蘇る。
 博多での準々決勝。試合終了後にスタジアム横を通りすぎる際、高台の上でバス待ちをしていた浦和レッズサポーターから「次、頑張れよ」と声をかけられた。
 格の違いとはまさにこういうことなのだ。点差だけじゃない。どちらが真の勝者なのかってことをまざまざと見せつけられてしまった感があった。

 とかくサポーターは都合のいい生き物だ。だけど試合に敗れたときにこそその真価を一〇〇パーセント発揮する生物でもある。
 クラブや選手との距離感を大切にするサポーターも、いやはやそんなものを度外視して真剣勝負に向き合うサポーターも、試合後の敗者としてのふるまいひとつで紳士淑女であることが証明されていく。サポーターにとってはそれがすべてなのだとぼくは胸を張って言える。
 今思っても悔しいけど、ベルマーレ平塚戦との決勝戦後のぼくは、なにかに反応することさえできなかった。まったくもって身体が動かなかった。
 試合前にいくら多くのサポーターのモチベーションを高められても、これまでで最高の応援ができたとしても、紳士淑女のふるまいができなければすべて無意味だ。
 あの焼け野原と化したゴール裏での敗戦処理がなによりも重要だったはずなのに。ぼくの足りないものがすべて露呈したといってよかった。
 そんな、サポーターとしての尊厳を守るための戦いというものが存在することに気づかされたのが浦和レッズ戦であり、ベルマーレ平塚戦だった。たったひとことの通り一遍な台詞でも事足りるはずだった。あの場面はそれだけで充分だったのだ。
 だけど、ぼくには言えなかった。家庭や仕事場やコンパで散々使い古してきた常套句のひとつすら発することができなかった。
 ぼくは、ぼく自身を許せなかった。許せないまま失意の正月三ヶ日を過ごすことになった。その年にたった二クラブにしか権利が与えられない国立での一九九五年元旦はこうして終わった。ぼくにとってのJリーグ元年が明けるのはもうしばらく先の話になりそうだ。
 セレッソ大阪はついに念願のJリーグの舞台で戦うことになる。相当苦労を要する一年になることは明確ながらも、新たな希望が後光のように差し込んでいる気もした。素晴らしい初年度になるはず…だったのだけど、現実はそれほど甘くはなかった。

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