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『ノルウェイの森』の〈直子〉は、なぜ自殺を選んだのか

直子が死んだ。そして読んでいた俺は「やっぱりか」と思った。

でも、何故そう感じたのか。俺はすぐに分からなかった。

それがこの記事を書こうと思った唯一の動機である。


今日は村上春樹の『ノルウェイの森』にヒロイン(?)として出てくる〈直子〉について考察をしていこうと思う。

冒頭から大胆なネタバレをぶっかましてしまったのだが、許してほしい。

そうだ、直子は死ぬ。しかも暗い森で自殺をして死ぬんだ。

だが、直子が自殺をした理由については、小説の中では明示されていない。

今回は、「〈直子〉が自殺をした理由」について考えていきたい。



下記の著書(鈴木智之の『村上春樹と物語の条件』)をヒントにしながら、『ノルウェイの森』のヒロイン〈直子〉が自殺した理由を探っていこうと思う。

これはあくまで、個人の推測であり、数ある考察の中から自分が納得できる考えに則ったものである。


ちなみに、この記事では便宜上、自分のことを〈俺〉と言う。『ノルウェイの森』の主人公である〈僕〉と区別するためだ。

さぁ、俺は頑張って記事を書くので、最後まで読んでくれ。これはきっとハードな執筆になるだろう。(書き始めの頃の俺より)



自己物語の喪失

まずは、直子が「〈キズキ〉の死によって失ったもの」とは何かを考えてみる。

ちなみにキズキというのは、直子にとっての幼馴染であり、恋人であり、そして、直子の人生を語るためには必要不可欠な存在だった。

だが、キズキは高校三年生の頃に、主人公の僕とビリヤードをした帰りに自宅のガレージでガス自殺を遂げた。理由は定かではない。

実際に、キズキの死に関してはこのようにしか述べられておらず、ほとんどよくわからん。

遺書もなければ思いあたる動機もなかった
村上春樹『ノルウェイの森』(上巻 46頁)

詳しくは、さとくらさんの記事を読んでみてほしい。とても啓蒙的で、読んでいてすごく面白かった。勉強になったし、自分の読書の浅さを痛感させてくれる。



では、キズキの死によって、直子が「失ったもの」は何か。

それは端的に、「自己物語」である。

ここでいう「自己物語」とは、自分を物語るための言葉そのものであり、自分が生きてきた歴史の語りでもある。

そして重要なのは、自己物語というのは、往々にして当事者の人生に深く関わる「他者の存在」によって語られる。鈴木の言葉を借りるのであれば、当事者の人生における「重要な共演者」の存在が、自己物語を語る上で、必要不可欠であるということだ。

人は、他者がいてこそ、初めて自分というものが成り立つ。これは、アメリカの社会心理学者のG・H・ミードの哲学に基づいている。僕らは他者との相互作用の中に生きているのだ。


こうした前提に立ったとき、直子は「重要な共演者」として〈キズキ〉を失ってしまっている。キズキの謎の自殺は、直子にとって、決定的な「自己物語の喪失」に他ならない。


以前、俺はこの記事で、俺ら現代人がこの流動的な社会を生きてゆくためには、「再帰的な自己物語の語り直し」が大切であることを述べた。

俺らが現代社会を生きるために、自己物語がいかに重要なのかを(珍しく)論理的に述べている。俺が真面目な気持ちで書いた貴重な記事の一つである。


この記事は、社会学者のアンソニー・ギデンズの思想に基づいているもので、権威性もある信頼できる理論である。

以上のことから考えると、つまり、直子を追い詰めているのは、

「自己物語の喪失」という現代社会における悲劇なのだ。


実際、小説の中で、二十歳を迎えた直子と僕が二人でお酒を飲んで話すシーンがある。直子は、自分の「思い出」を止めどなく語り続ける。(たしか、4時間以上、ノンストップで語ったと書いてあった気がする)

しかし突然、直子の語りは、ふっと途切れてしまう。

しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたとき、直子の話は既に終っていた。 言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふっと消えてしまったのだ。彼女はなんとか話しつづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何かが損われてしまったのだ。
村上春樹『ノルウェイの森』(上巻 74頁)



「混沌を生きる直子」と「回復に縋る僕」

直子の悲劇はそれだけではなかった。

直子は、精神的な病いを混沌としたものと捉えていた。いや、厳密には捉えることさえもできなかったのかもしれない。

自分の状況を物語的に、かつ論理的に言語化することができず、ひどく混乱していた。


実際に、直子が僕に直子自身の心の混乱について話すシーンがある。

「そういうのってわかる?」

「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。

「みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。 

「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。
村上春樹『ノルウェイの森』(上巻 41頁)


直子はきっと、「それとはまた違うの」としか発言することができなかったんだと思う。それは、直子が混沌の中に沈んでいたからであって、そして混沌の外部にいる者(僕)は、その混沌を理解することさえできないし、理解しようとさえもしない。

直子は自分の「自己物語の喪失」を「病い」として認識していて、でもその病いを「混沌」として捉えている。

そして混沌は、「回復」の対極として語られる。

主人公である僕は、直子の「病い」を「回復」のストーリーで考えている。

つまり、「今は精神的に苦しいかもしれないが、それは過去の苦しみを忘れることで、または前を向くことで、次第に良くなっていくだろう」という回復のストーリーの上に、僕は立っているのだ。


しかし、「回復」は、直子が苦しむ「混沌」の完全に外部に位置している。

つまりこれが意味しているのは、「僕は直子を絶対に理解しえない」という残酷な真実である。

僕と直子は、決定的にズレている。

いつまでも「きっと治る」という回復の物語に縋る僕と、「忘れることなんてできない」という混沌の中に生きる直子。

そう考えると、一見、直子に優しく寄り添っているように見える僕も、最終的には直子の心の支えにはなれていないのだ。

直子にとって、理解者なんて誰ひとりとしていなかったんだ。救いがなかったんだ。きっと。


「僕の望むのはそれだけじゃないよ」と僕は言った。 

「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」

「僕は何も無駄になんかしてない」 

「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つの? 十年も二十年も私を待つことができるの?」

「君は怯えすぎているんだ」と僕は言った。

「暗闇やら辛い夢やら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ」

「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。 

「ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?」と僕は言った。

「そうすれば君を暗闇やら夢やらから守ってあげることができるし、レイコさんがいなくてもつらくなったときに君を抱いてあげられる」

直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。

「そうすることができたら素敵でしょうね」と彼女は言った。
村上春樹『ノルウェイの森』(上巻 268頁)


「直子の混沌に向き合う者の不在」こそが、直子が自殺した二つ目の理由であると考える。



「秩序への再入場」の恐ろしさ

そして、直子が自殺を選んだ三つ目の理由が、「秩序への再入場の恐怖」である。

「混沌を経験した者」が「混沌を理解し得ない者たちの社会」へと放り出されることの恐怖である。

想像してみてほしい。自分が経験してきた「混沌」を理解しえない、そもそも理解しようともしない人々が生きる「秩序社会」への再入場が、いかに恐ろしいことか。

たとえば、ホロコースト(極限の混沌)からの生存者が、インタビューに答えた時、何と言ったかご存知だろうか。

その時、私にとっての困難がまさに今始まろうとしている
ローレンス・ランガー

アウシュビッツでの虐殺からの何とか生き延びた生存者は、その解放から、ポジティブな語りをするかのように、俺たちは思ってしまう。だがそれは秩序社会に生きる人間の考え方だ。

極限の混沌の中で、外部とは隔絶された歪んだ経験をしてきた人間は、その経験が地獄だったとしても、解放されて、秩序社会へと「再入場」することに深く恐れを感じることがあるのだ。

それは、癌患者が治療を終えて、いざ退院できる、という際に、不思議な恐怖感を覚えるのと同じロジックである。


そして直子もまた、混沌とした人間だけがひっそりと暮らす「阿美寮(精神病の療養施設)」から、誰も直子の混沌に理解を示さない「外部の世界」へと出ることを極度に恐れていたのではないだろうか。


俺は先日、友人に『ノルウェイの森』の話をした。あらすじを語る中で、直子のことについて、ことさら丁寧に語った。直子がどのような困難を抱えているのか。直子の持つ混沌についても配慮して伝えた。つもりだった。

だが、友人から出た言葉は、

「直子が〈僕〉とくっついて、キズキを忘れればいいだけじゃじゃん。直子はもっとポジティブになった方がいい」
友人の言葉

この言葉は、直子の心を深く傷つけるだろう。だが、実際、これが現実なのだ。この友人は、いい奴だ。悪意を持ってこうした意見を言ったわけではない。彼は、あくまで「回復」のストーリーに則って、秩序世界の住人としての言葉を発したまでだ。

だが、それが、直子をどれだけ苦しめるのか、誰も分からない。誰にも理解できない。それは〈僕〉でさえも。

それが、『ノルウェイの森』の最大の悲劇かもしれない。俺はそう感じた。


最後に、直子が阿美寮から僕に送った手紙を読んでほしい。

私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みがひきおこす現実的な痛みや苦しみをうまく自分の中に位置づけることができなくて、そしてそういうものから遠ざかるためにここに入っているわけです。

ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。

でも私たちはこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。
村上春樹『ノルウェイの森』(上巻 162頁)



終わりに

俺が珍しく論理的な文章を書いた。明日は釘でも降るだろうか?

俺は普段、女の子の話しか書かない。エモい話とエロい話と、俺がモテるというファンタジーな話しか書かない。

だが、今回の『ノルウェイの森』は俺がとても大事にしている本の一つで、かつ慎重に読んだ本である。

だから、この直子について、しっかり書いてみたいと思ったんだ。

この小説を読んだことない人にとっては、わりかし難しかったと思う。でも読んだことのある人は、納得してくれるんじゃないかなと、密かに期待している。

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