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滅んだ国の王族が別の場所で建国!世界史上の稀有な事例がベトナムにも存在した?

人類の歴史が文字として記録されてから約5000年。世界中で無数の国家が成立しては滅ぼされてきましたが、1度滅ぼされた国の王族がうまく逃げ延びて、以前の支配地とは別の場所で建国に成功した事例は、数少ないでしょう。

通常国が滅ぶ時、ほぼ力を失った状態であり支配階級であった王族は逃げるだけでも精一杯です。そんな状況下において、旧領の回復ではなく今までの自分の支配地とは異なる場所へ侵攻して既存の支配勢力の駆逐に成功し、新たな国を建てるというのは、相当難易度の高いことだからです。逆にそれを成し遂げるような人は、建国者と呼ばれる人たちの中でもさらに特別な能力を持った人と言えるでしょう。

そんな世界史における稀有な事例が、実はベトナムにも存在した可能性があります。今回は古代ベトナムに起きた王朝成立と、世界で起きた同様の事例について紹介したいと思います。

1. 中国からの亡命王子が建国した?ベトナム2番目の王朝「甌雒」

2021年4月21日は、ベトナムの祝日であり、ベトナム史における最初の国「文郎国(ヴァンラン、紀元前2879年~紀元前258年)」を作った雄王(フンヴォン)の命日と言われている日です。

伝説上の国とも言われておりどの程度まで実在したのかは定かではありませんが紀元前258年に文郎国を滅ぼしたのは、蜀泮(しょくはん。開明泮=カイミンハンとも呼ばれる)という人物でベトナム2番目の王朝である甌雒国(オーラック、紀元前257年~紀元前180年)を建国します。

オーラック

緑色がオーラック(AU LAC)国の支配エリア

興味深いのはこの蜀泮の出自で、中国の戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)の四川省エリアに存在した古蜀(~紀元前316年)の王族とも言われています。古蜀では春秋時代から開明朝が続きましたが、紀元前316年に強国である秦により滅ぼされます。第12代目の蘆子覇王の子とされる蜀泮は、故地から遠く南へと逃げて以前の支配地と全く異なる地域ベトナム北部で甌雒国という国を建国したことになります。

古蜀

中国の戦国時代。秦の左下が古蜀。Wikipediaより

なお紀元前257年という年代は、13世紀から15世紀に書かれたベトナムの歴史書からの年代ですが、司馬遷の史記での記述をベースにすると秦が中国統一後にベトナムへも侵攻してきた紀元前218年以降が甌雒の成立とする見方もある様です。その場合、中越国境付近に逃れていた亡命王族の子孫である蜀泮が秦に対抗する指導者として選ばれ、秦軍を撃退に成功して先祖の仇を討ち、異国のベトナムにて新たに建国した・・・という出来事になります。こちらの方がよりドラマとなる物語ですね。

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ホーチミンにある蜀泮安陽王、An Dương Vương)の像

上記どちらが正しかは定かではないですが、蜀泮が秦の侵攻に備えて作ったという城郭の一部は現在観光地となっています。それがハノイ近郊にあるコーロアで、3重の土塁と水堀が渦巻くような形から螺(タニシ)の形に見えるとして古螺城と呼ばれています。

コーロア城

なお今から2200年前の出来事であり資料も少なく、本当に蜀泮が古蜀の王子かを疑問視する説や史実では無いという意見もあります。しかし古代における中国との関係や交流の深さから、可能性もあるのではないかと筆者は考えました。例えばハノイに面した紅河(ホン川)は、遠く雲南省まで繋がっており、古代から河川を使った人の行き来や交易があったとも考えられるからです。

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紅河、大理付近からハノイを経てトンキン湾へと繋がる(Wikipediaより

また当時ベトナムから中国の沿岸沿いかけては、中原から越と呼ばれる様々な部族がいて全く未開の地ではなく交流があり、そこへ古蜀からの亡命者が流れ込んだということもありそうです。

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紀元前500年頃の越の国々という図

ベトナムでの事例は以上として世界史における同様の事例を、以降は手短に紹介したいと思います。いずれも蜀泮のケースとは異なり、日本の教科書にも載っている有名な出来事になります。

2. 後ウマイヤ朝を作ったアブドゥル・ラフマーン1世

750年中東においてアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼすアッバース革命が起こると、ウマイヤ朝の王族はほとんど殺されてしまいます。ただ1人シリアから逃げることに成功した王族のアブドゥル・ラフマーン1世は、母親がベルベル人であったことからモロッコまで逃れます。

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イベリア半島は711年~718年にウマイヤ朝の領土となっていましたが、アッバース革命後は、この地域を納めていた代官であるユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン・アッ=フィーリが独立勢力となり支配していました。

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モロッコで軍を整えてイベリア半島へ渡ったアブドゥル・ラフマーン1世は、756年ムラサの戦いでユースフを破りウマイヤ朝再興(コルドバのウマイヤ朝、日本では後ウマイヤ朝)が成立します。

3. 西遼(カラ・キタイ)を作った耶律大石

中国の北部を支配していた遼は、より東北部に成立した金からの圧迫を受けて1124年に滅亡します。遼の皇族である耶律大石は、部下200名を引き連れてモンゴルへと逃亡。さらに金に追われて西へ西へ向かい、ウイグルや西カラハン朝などを臣従させて、1132年に現在のウズベキスタン・キルギス・カザフスタンなどを支配下に置き建国します。ペルシア語などでは、黒い契丹という意味でカラ・キタイとも呼ばれる国です。

カラキタイ

緑色が西遼で矢印が耶律大石が逃れてきた経路

4. ムガル帝国を作ったバーブル

15世紀末、ティムール朝サマルカンド政権の君主だったバーブルは、反乱などにより支配地域であるサマルカンド(現ウズベキスタン)を追われます。

その後も一時的に取り戻しても、シャイバーニー朝の指導者ムハンマド・シャイバーニー・ハンからサマルカンドを取り戻すことができず、南へと移動しカブール(現アフガニスタン)を占領。サマルカンド奪還はあきらめて、北部インドへと目を付けて1526年パーニーパットの戦いでローディー朝を破り、北インドの支配を固め、後のムガル帝国を作ります。

ムガル帝国

紫色がバーブル時代のムガル帝国の支配地

5. ゲルマン民族大移動における建国は?

ここまで見てきてゲルマン民族大移動も入るのでは?と思った方がいると思います。ローマ帝国末期、フン族の族長アッティラが東方から侵攻してきたことで、故地を失ったゲルマン民族が376年にドナウ川を越境し帝国内に流入し、ヨーロッパや北部アフリカに様々な国が建国されたのは有名です。

ゲルマン人大移動2

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)より

イベリア半島に西ゴート王国、イタリアに東ゴート王国、南西フランスにブルグンド王国、北西フランスにフランク王国、ブリテン島(イギリス)に七王国、北アフリカ(現チュニジア)にヴァンダル王国など、部族ごとに国が作られました。

ただこれらの国の建国者達がフン族によって滅ぼされた王族かどうかや、追われる前はどんな国だったのかも不明でしたので、今回は除外して考えました。

蜀泮を入れても世界史上4例しかないと考えられる、滅んだ王国の別の場所での復活劇は、いかがでしたでしょうか。今回、筆者で知っている事例を上げてみましたが、上記以外で同様の事例をご存知でしたら、ぜひ教えて頂けたら幸いです。

<過去に書いた歴史ネタ>




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