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【短編】ドッグタグ 1/3

学生時代のボーイフレンドに呼び出されたのは午後のダイナーだった。懐かしい名前に心が震える。 

仲良しグループの一人。口には出さなかったけれど、その横顔が大好きだった。光に透けるちょっと長めの前髪も伏せたまつ毛も、びっくりするほど綺麗で、それから声も仕草も、ふとした笑顔も……。だけどそれだけだ。ここではバランスが大切、私的な一歩を踏み出すべきではないと思っていたから。 

でも、それは言い訳……。踏み出したところで何も変わらなかったかもしれない。けれど私には、それこそが怖かった。そうなれば、彼のそばにいることはできなくなる。それだけはごめんだった。

だから私は選択したのだ。踏み出さないこと。変えないこと。少しでも長く彼のそばにいるために、いつもと変わらない笑顔の下に何もかもを封じること。それで十分だと、私は自分を納得させた。

あの頃、映画だ買い物だと、はしゃいだ後のダイナーは私たちのおきまりのコースだった。パンケーキを分け合って、コーヒーを飲みながらするたわいもない会話が、今もまだ鮮やかに私の中に残っている。

一見時代遅れなようでいて、けれどその古臭さを求めて人が集まる場所、ダイナーは今も健在だ。私たちはみんな変わってしまったのにね、と思わずひとりごちる。週末は相変わらず賑わっていることだろう。でも、昼のピークも過ぎた今、店内に人影はなかった。

見渡せば、既視感のある山盛りパンケーキを前に彼は座っていた。私を見つけて片手を上げる。その時一緒にくいっと唇の片側が上がる癖……。午後の光の中、一見酷薄そうな顔は、今日も悔しいほどに綺麗だ。

何度それを盗み見たことか……。遠い日に一気に引き戻されたような気分になる。いけないいけない。すべてはもう、卒業とともに終わってしまったもの、過去のこと。そう自分に言い聞かせながら、私は彼が座る席へとゆっくり歩いた。

「久しぶり。どうしたの、休暇?」

努めて明るい声を出す。あなたの顔を見てしばし感傷的になりましたなんて、そんな気配を微塵も感じさせないために。私の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼はお行儀悪く、パンケーキ山の頂上から盛大にメープルシロップをかけ流した。

「頼まれて欲しいものがあって。あ、好きなものなんでも頼んでいいよ。俺、おごるから」

私の挨拶に答えることなく要件を切り出した彼は、蜜だらけの山に挑戦的な目を向けた。きらめくナイフが差し入れられる。格闘か? 混戦か? いや、それは見事な圧勝だった。惚れ惚れするような手際で切り分けられた断片が、瞬く間に減っていく。そしてそれは、私のカフェラテが届く前にはすっかり姿を消していた。

「で、何?」

満足げにナプキンで口を拭う彼に私は聞いた。

「俺の代わりに持って行ってもらいたいんだ」

彼は脇に置いてあったものに手を伸ばし、差し出した。エンボス模様も美しい水色のちょっと大きめな封筒。ご丁寧に蜜蝋の封までされていて、特別なものだと一目でわかる。私は背筋に冷たいものを感じた。促され、そっと受け取れば、かちゃりと封筒の中で金属音がした。

「ドッグタグだ。相棒が死んだ。故郷に持って行ってやろうと思ったんだけど、急な任務が入って行けなくなった。だけど、これ持ったまま、俺まで潰れたら浮かばれないなあと思っ」
「待って! 待って……何それ」
「そんなに驚くか? 今更だろ? 誰だってわかってることだ」
「だけど……」

私たちの国には軍があり、未来を想像できない若者も、未来を掴み取りたい若者も、どちらもがそれを見つけるために入隊することは珍しいことじゃない。けれど、見つけるために入っても、誰もがそれを見つけられるわけではない。

あの日、穏やかな彼が戦うことを選んだという事実に、私は大きなショックを受けた。しかし本人が決めたこと。部外者である私に口を挟む権利はない。心の中では荒れ狂う嵐みたいにあれもこれもが飛びかっていたけれど、私にできたのは「気をつけて」というたった一言を声にすることだけだった。やっとのことで紡ぎ出したその言葉とともに、彼の背中を送り出して久しい。

この国はいつだって戦っている。それは命のやり取りで、今生の別れを意味すると言っても過言ではない。けれど私たちは少しずつ少しずつ、それを忘れてしまうのだ。身近に感じない死は、いつしか遠いものとなってしまう。

彼の入隊にあれほど心裂かれるような痛みを覚えたというのに、私もまた麻痺してしまっていたようだ。彼の口からこぼれた言葉に途端不安が膨れ上がり、忘れかけていた痛みが蘇り、私は平静ではいられなくなりそうだった。

(相棒が死んだ? 俺まで潰れる?)

彼が今、どこにいて何をしているかは機密事項だから知るすべはない。それにしてもひどすぎる。あなた死ぬ気なのって言葉が喉まで出かかって、必死でそれを飲み込んだ。

死ぬつもりなんてあるわけがない。だって彼はこのタグを持って行きたかったのだから……。でもそれが叶わないかもしれないと思い、律儀に託そうとしている。

「だったらあなたのタグは?」

思わず呟けば、聞こえなかったのだろう、首を傾げて不思議そうに私を見た。そこに悲壮感はない。私が動揺して彼を混乱させてはいけないのだと思った。ゆるゆると頭を振り、私は小さくため息を吐き出す。

「どこへ持っていけばいいの? でも、その約束を果たせた時には報告がしたいわ。ちゃんとまた会いに来てくれる?」
「ああ、いいよ。約束する。ありがとう……助かったよ」

彼は嬉しそうに微笑んだ。その顔を見て、彼が求めていたものを確信する。そう、あの頃と同じように、平坦に、いつもと変わりなく、彼のお願いを聞いてあげられたことに心の中で安堵する。

それから私たちはたわいもない話をした。懐かしいあの時代に戻ったみたいに。特別じゃない時間がこれほどまでに特別なことを改めて思い知らされ、胸の奥が痛くてたまらなかった。

やがて彼がおかわりのコーヒーを無造作に流し込み、私たちは立ち上がる。短い逢瀬。それも他人の命を仲介にした、なんとも奇妙な時間。

それでも彼は約束してくれた。……わかっている。その約束が守れるとは一言も言っていない。私は笑顔で手を振りながら、現実に打ちのめされそうになっている自分に気づいた。

だめだ。顔を上げ、そんな自分を心の内で強く叱咤する。私も彼も共に再会を望んでいるのだから。それでいい、今はそれを信じていよう。

戦いは前線だけで起こるわけじゃない。彼の心配をしている自分が明日消えてしまうことだってある。いつどこで何が始まるかなんて誰にもわからないのだ。だから私たちには、個人データを全て入力したチップの装着が義務づけられている。街で働くだけの私の手首にもそれは埋め込まれているのだ。

どこに入れるかはその人次第。盗まれないためにも場所は口外しないことになっている。もしもの時には残された体から、政府の持つ特殊装置で分析される。残念ながらそれができない時もあるけれど、状況や遺留物などからも個人の特定はある程度できる。

そう、タグなんて昔々にもてはやされたものだ。データ挿入が推奨され、そのスマートさがもてはやされた挙げ句、見向きもされなくなったもの。もうずっと前に、それは無用の長物となっている。

けれど、感受性が豊かすぎて暴走しやすく、メランコリー世代と呼ばれた私たちが、多くの場で活動の軸となってきた昨今、タグは再び脚光を集め始めた。

学生時代、私たちはいつだって生きている意味を知りたいと願った。探し走った。求め焦がれた。そんな私たちが社会に出、責任を負って戦い始めた今、激務の中で再び生きる意味を見つけたいと思ったのだ。自分を繋ぎ止める確か何か。それを感じるために手に取ったのが……ドッグタグ!

何が入っているわけでもない。名前と生年月日と小さなメッセージが刻まれたアクセサリーのようなもの。それでも胸にかければじんわりと熱を持つ。それが、自分がまだ生身の人間だと教えてくれる。それはまさに、私たちに命を感じさせる証だった。

そんなタグを届けるのだと想うと切なくなった。私は自分の胸の上のそれを握りしめ、顔も知らないその人のためにできることをしてあげたいとそう思った。

一緒に手渡されたメモを読めば、初めて見る町の名前。中西部の山あいの小さな田舎町。これと言った特産物や町おこし的な何かがあるわけでもなさそうだし、広大な農場や牧場も見当たらない。何をして人々は生きているのかと、疑問に思うような平凡な町だ。

そして思った以上に遠方だった。週末に気軽に、とはいかなさそうだ。けれど、いい機会かもしれないと思った。もう数年、旅行になど行っていない。業務に支障が出ないよう、私は前倒しで仕事を片付けていく。せっかく遠出するのだ、観光だってしたい。最後には「私が疲れて果てて辞めてしまったら、困るのはボスですよ」と渋る上司を半ば脅し、二週間の休暇をもぎ取った。




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