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【短編】菫咲く頃、午後の墓地にて(前編)

 気がつけばここにいる。この場所の、巡る四つの季節のすべてに、私と物言わぬ兄との時間が刻まれている。マリーベル、マリーベル。変わらぬ兄の声を胸に墓地を行けば、うららかな春の昼下がり、芽吹いた緑があちこちで古びた墓碑を優しく包み込み、いつになく穏やかな気持ちになれた。
 
 頬を撫でる風につい、癖で髪をなで付ける。いつもは下ろしている長い髪、細い巻き毛は風に絡みやすい。けれど今日は一日歩くつもりだったから、編み込んですっきりまとめている。じゃれつく春風に乱れることはない。
 兄がよく褒めてくれたのだ。お前の髪は夕日にかざした蜂蜜みたいだと。そのまとめ髪に菫の花をいくつか挿してきた。今が季節。森を覆い尽くさんばかりの紫は、私が暮らす村の風物詩だ。そしてその色は私の瞳の色だったりする。いや私だけではない、村の多くの人の。もちろん兄もそうだった。
 
 菫咲く僻地の村育ち。海を見たことはない。けれど兄は海兵隊に志願した。海の青がどんな色なのかを知りたいと思ったからだ。今度帰ってきたら教えてくれると言ったのに、その約束は果たされなかった。
 兄を失って五年。あの日流した涙は乾き、墓碑に向かって軽口さえ叩けるほどになった。自慢の兄。兄にだけは恥じないように生きたい、兄ならきっとこう生きるだろう、そう思えるようになったからだ。
 けれどまだ何かが足りなかった。薄い膜のような何かが足元に絡まって、私は最後の一歩を踏み出せないでいる。

 また来るねと別れの挨拶をし、通いなれた小道を墓地の裏門へと向かえば、珍しく人影が見えた。こんな陽気なのに暗色の大きなマント……旅装束だろうか。座り込んでいるその様子に胸が騒ぐ。もしや具合が悪いのではと、思わず小走りになった。
 お前は素直すぎる。よく兄に注意されたことを思い出す。今だって、不審者かもしれない、正体をなくした酔っ払いかも、いや、不意打ちをくらわそうと企む物取りかも……。
 それでも駆け寄った私が見たものは、はっとするほど端正な横顔を晒す若い男性だった。しかしその肌は青ざめ、彼の不調を如実に物語っている。

「大丈夫ですか?」
 
 少し手前で足を止め、そっと声をかければ、その人は顔を上げてかすかに微笑んだ。そんな状態なのにだ。その気遣いに悪い人とは思えず、もう一歩近づいた。

「あ、ありがとう。大丈夫。ちょっとした貧血です。じきによくなりますから」

 そう言うとまたすぐに彼はおもてを伏せた。落ち着いている。よくあることなのかもしれない。そっとしておいた方がいいだろう。そう思うのに立ち去れずにいた。彼が、兄の年頃を思わせる人だったからだ。私は黙って近くに腰を下ろした。
 
 短く刈り込まれた髪は綺麗な色をしている。銀色に所々混じる青……。それは私の周りにはない色だった。海、だろうか。ふとそう思った。海を知りもしないのに、なぜかそう思ってしまったのだ。
 私は彼の髪を見つめ続けた。春の風がどこからともなく甘い香りを運んでくる。訳もなく居心地の良さを覚えた。
 ほどなくして、彼が再び顔を上げた。私を見て少し驚き、それからまた小さく微笑んだ。さっきよりは幾分顔色がいい。私は持っていた籠から小瓶を取り出した。

「あの、これ。よかったら飲んでください。菫水です」
「すみれ、すい?」
「はい。私の村の特産品です。綺麗な湧き水に、花の色と香りを写し取ったもの。アレルギーの心配はありません。飲みやすいんですよ。みんな喜んでくださいます。この瓶は今年の一番花を使ったもの。だから特別です」

 菫水は古くからあるものだが、ずっと村の中だけで楽しんでいた。けれど花を見に来た人に振る舞ったことで評判になり、去年の春からは近隣の町や市にも下ろすようになったのだ。美しい菫色、中でも一番花分はその透明感と香りがずば抜けており、ちょっとした人気商品だ。
 説明を聞いた彼は一つ頷き、神妙な面持ちでキャップを回す。そして香りを吸い込めば、途端笑顔が弾けた。その仕草に胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がした。頬が熱くなりそうで、慌てて「常温でも喉越しがいいんです」などと早口に付け加える。

 ざわざわと大きな樫の木が葉を揺らした。彼の肩に戯れる木漏れ日。「美味しい」というつぶやきから、私たちはぽつぽつと言葉を交わし始める。丁寧な物言いや屈託のない声色に、裏表のなさを感じて頬が緩む。久しぶりに浮き立つような気分だ。
 話してみれば、彼はやはり遠方からの人だった。怪我で長く入院していてようやく退院し、気がいてやってきたものの、まだまだ本調子ではなかったと苦笑する。
 軍人さんなのだろうか。マントの下の立派な体躯は、けれど威圧感など少しもなく、逆に大きな温かさで包み込んでくれるかのようだ。そんな人に「君も墓参り?」と問われ、私はつい心の中のわだかまりを吐き出してしまった。


                   


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