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兄と私 生きるということ

自分は自分にしかなれないし、
自分でしか生きていけない。

それはすなわち、自分にとっての唯一無二の自分を持つこと。
自分を愛すのも励ますのも叱るのも、もう一人の自分。
だから、自分の中にいるそんなもう一人の自分の手を
しっかりと握って離してはいけないんだ。

かつて兄と呼んだ人が、一人で遠くへ行ってしまった時、
兄はその大事な手を離してしまったのだと私は思った。

どうしてそんなことになったのだろうと、その後時々考えた。
でもそんな時の兄は決まって、もう一人の自分どころか、
三人も四人も持っているような、かつての飄々とした兄だったりする。

お兄ちゃん、どうして手、離したりなんかするのよ。
どうせお兄ちゃんのことだからあっちにもこっちにもいい顔して、
結局みんなに愛想つかされちゃったんでしょ。

そうかもな。そういうこともあるな。
だけどまあ、なんだ。
なんにでも、引き際ってものがあるってことさ。

引き際ってなによ。勝手に決めたくせに。
私にはなにも言わなかったくせに。

いいんだよ。俺のことは。
俺の人生、お前には決められないんだから。

兄が実際にそう言ったかというと違う。
これはみんな私の妄想だ。
でもきっと兄はこう言うはずだ。うん、間違いなくこう言う。

そんな風に、色んなことをよくわかっていたはずの人が、
大事な手を離してしまったことについて、もう聞こうにも聞けないし、
でも、わかったところで多分なんの役にも立たない。

なぜなら、兄にとっての選択は、私には決してあてはまらないものだから。
兄の人生は兄のもので、私の人生は私のもの。
それだけは、誰にも肩代わりは出来ないんだ。

それでも思う。兄の分まで生きてみたいと。
そして、そんな私に兄は言うだろう。

そういうのいいから。
お前はお前らしく生きればいいんだよ。
余計な事は考えるな。

でも私は思うんだ。
そんな余計な事を、理解不可能な兄のことを、
考えて生きていくのは私の選択だから、
これだけは、兄にだって文句を言われる筋合いはない。

だけど口では勝てないだろうから、私はこう呟いてみる。
たまにはさ、可愛い妹の我がままくらい、聞いて欲しいなあ。
なんやかんや言ってシスコンの兄であるから許してくれるだろう。

だから私はそんな兄の分まで、自分の中に生まれる多くの手を握って、
用意された引き際までしっかり、歩いていきたいと思う。
私を愛するのは私で、兄を愛するのも私で、きっとそれでいいのだと思う。

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