勝手にジューイッシュ☆ツアー
中欧に位置する旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ(BiH)サラエボ市からお届けしています。
今回は、マニアック承知でサラエボ市のユダヤ教についてお伝えします。
バルカンのイスラエルと呼ばれるサラエボ
「サラエボがバルカンのイスラエル」と呼ばれる所以は、イスラム教徒、正教会、カトリックの隣人と比較的調和して暮らしてきたヨーロッパで数少ない場所の1つだからです。
サラエボ市のユダヤ教コミュニティー
サラエボ市民は、ボシュニクと呼ばれるイスラム教徒の住民が多数を占めますが、宗教に寛容な土地柄の為に様々な宗教寺院があります。
☆旧ユダヤ人墓地
東南ヨーロッパ最大のユダヤ人墓地です。オスマン帝国時代から1966年まで約400年使用されていました。Stećci, Stećakと呼ばれる石棺が特徴的な遺物があるのもUNESCOのレポートに示されています。
トレベヴィッチ山の斜面にあり、自宅から徒歩20分程度なのですが、急斜面を徹底的に登るので、呼吸は荒くなり翌日は筋肉痛になりました。
墓地は内戦中の最前線にあり砲撃場所として使用されました。従って、爆発や弾丸の火災で墓地は深刻な被害を受け荒廃しています。
☆ユダヤ博物館
「初訪問ですか?案内しますよ」と博物館スタッフの申し出があり、お願いしました。現在、BiHに住むユダヤ教徒数を伺ったところ一概に言えないとの答え。1000人くらいかな?という印象でした。
ユダヤ教徒の人たちが、ペサハ(過越日)にセーデルで読むものです。サラエボのハガダーは1350年頃に書かれたとの事ですが、大変過酷な歴史を通して現存しているお話を伺いました。1941年、BiHはナチスドイツに支配されると、博物館長はビイェラシュニカ山のイスラム教徒の村のモスクにこのバガダーを隠し、無事に戦後はサラエボの国立博物館に返還されました。その後、サラエボ包囲戦(1992年~1996年)では、国立博物館は戦争の最前線(スナイパー通り沿いに位置する)となり、深刻な被害を受けました。他の多くの貴重な品物とともに、ハガダーは国立銀行の金庫室に移され、ボスニア戦争が終わるまでそこに留まりました。宗派を超えて守られたハガダー。
第二次世界大戦中、BiHはユーゴスラビア王国の一部であり戦争初期にナチス・ドイツに占領されていた為、国内全体でホロコーストの犠牲者が出ました。ユーゴスラビアの各地域でユダヤ人や他の少数民族集団がナチスによって迫害され、虐殺されました。
☆アシュケナージ・シナゴーグ
アシュケナージとは、ドイツ語圏や東欧に移り住んだユダヤ系を指し、シナゴーグはユダヤ教の会堂です(超ざっくりな説明)
ネオ・ムーリッシュ様式の寺院でミリャツカ川沿いに1902年に建てられました。今の建物は内戦後の2000年代に再建されました。
見学は要予約ですが、昨今、様々な事件が世界中で勃発、誰でもウエルカムでは無いので市内ツアーに申し込むほうが確実です。
因みに、現在、国内ユダヤ教徒の割合は、アシュケナージでなくセファルディムと呼ばれる南欧諸国やトルコなどが多数派との事です。
☆ボスニア文化センター
略してBKCは、サラエボの中心部に位置し国際映画祭の開催場所として有名です。スティーブ・ブシェミが過去、映画祭大使として来たこともあり、アンジー、ブラピにデニーロ等々。。。キラ星ビッグネームがサラエボ映画祭に来ています。
なぜBKCがサラエボのユダヤ教に関係するかというと・・・
ナチスドイツに壊滅された市内最大のシナゴーグ(Il Karl Grande)の敷地をユダヤコミュニティーから市へ提供され、BKCが1966年に建てられました。
アールデコ様式、大きな楕円形のドーム、アルハンブラ宮殿を模した入口の中庭が備わっており、信者2000人収容可能だったとのことです。
サラエボのユダヤ教徒は、第二次世界大戦中はナチスドイツの侵攻で困難を極める歴史があります。しかし、1400年代のオスマン帝国統治時代から歓迎を受け定住し、第二次世界大戦中はムスリム寺院がサラエボハガダーをナチスから命がけで守った等、他の宗教コミュニティとの平和的な関係をマイノリティーでありながらも存続が出来ています。
お食事🍚情報
アイバル/Ajvar
様々なメーカーの瓶詰Ajvarが販売されています。
最初、どのように食べたら良いか分からなかったのでバルカン出身の知人に聞いたところ「パプリカペーストで、パンに付けて食べると美味しいよ!」と教えて貰いました。今や食卓には欠かせない存在です。
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