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本当の意味で自分を好きになるということ

皆さんのなかには自分のことを好きになることができないということで悩まれている方が一定数いるのではないかと思うのですが、それでもこの課題は非常に難しいもののように思うのですね(-_-;)

もちろん生まれつき「私は自分のことが大好き!」という方からしてみれば「自分のことが好きなんて普通のことじゃないの?」というふうに思われるかもしれないのですが、それでも生まれつき自分のことが嫌いで強い劣等感に苛まれてきたという方からしてみれば「自分のことを好きになる」というのはかなりハードルが高いことであり、なかなか実践することができるものではないのではないかと思うのです。

我々人間はどこか自分の考え方やメンタルはコントロールすることができるものであるというふうに考えている節があるのですが、それでも実際には自らの考え方やメンタルというのは非常にコントロールすることが難しいものであり、現時点で自分のことを好きになることができないという方はそう簡単にその劣等感や自己嫌悪感を払拭し自らのことを好きになることはできないのではないかと思うのですね。

それでは現時点で自らのことが嫌いであり強い劣等感や自己嫌悪感に苛まれてしまっているという方は今後もずっとそのままなのかということなのですが、実際にはそのようなことはなく現時点で自分のことが嫌いでも自分のことが好きになることができる可能性は十分あるのではないかと思うのです。

そのため今回の記事では自分のことを好きになるためにはどうすればいいのかということについて見ていきたいと思うのですが、まず最初に皆さんに考えてみてほしいのはそもそも「自分のことが好き」というのはどのような状態であるのかということなのですね。

皆さんのなかには「自分のことを好きになることができない!」というふうに悩まれているという方が一定数いるのではないかと思うのですが、そのような方は自らにとっての理想である「自分のことが好き」という状態を一体どのようなものとしてイメージされているのでしょうか?

このように書くと皆さんのなかには「何言ってんの?」というふうに思われる方もいるかもしれないのですが、ここで皆さんに分かってほしいのは「本当の意味で自分のことが好き」という状態は決して「自分の機能が好き」という状態ではないということなのです。

このように書いても皆さんとしては「???」という反応になってしまうかもしれないのですが、まず皆さんに分かってほしいのは「自分のことが好き」という状態と「自分の機能が好き」という状態はまったく違うものであるということなのですね。

本当の意味で自分を好きになるためにはどうしてもこの部分が飛ばせないことから皆さんにはぜひまずこの部分を理解してほしいのですが、その詳しい内容については本章でじっくりと見ていきたいと思います^^

「自分のことが好き」と「自分の機能が好き」の違い

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それでは早速「自分のことが好き」という状態と「自分の機能が好き」という状態の違いについて見ていきたいと思うのですが、まず皆さんが気になっているのは私が先ほどから使っている『機能』という言葉なのではないかと思うのですね。

まぁこの『人間としての機能』という言葉は基本的には私しか使わないことから、何の説明もなく書かれても一切意味が分からないという方も多いのではないかと思うのですが、ここで言う『人間としての機能』とは特定の能力や容姿、社会的地位や年収などのこととなっているのです。

要は特定の能力や容姿、社会的地位や年収などのことを『人間としての機能』と呼んでいるということなのですが、この『機能』というものは人間の数だけあり『機能』という意味でまったく同じ人間などこの世には存在しないのではないかと思うのですね。

例えまったく同じ遺伝子を持つ一卵性双生児でもその能力や容姿、身長やスタイルなどには違いがあり、この『人間としての機能』という意味でまったく同じ人間などこの世には誰一人として存在しないのではないかと思うのです。

そしてここで皆さんに分かってほしいのは誰であれ自らの機能に好きな部分もあれば、嫌いな部分もあり自らの機能が好きな部分で占められている方もいなければ逆に嫌いな部分だけで占められている方もいないということなのですね。

例えば「自分は運動神経はいいけれども頭は悪い」という方であったり「自分は顔立ちは整っているけれども身長が低くスタイルが悪い」という方や「自分は社会的地位が高く年収も高いけれどもあがり症で女性とまともに話すことができない」という方など「運動神経が良い」「顔立ちが整っている」「社会的地位が高い」などというような『好きな機能』もあれば、その一方で「頭が悪い」「身長が低くスタイルが悪い」「あがり症で女性と話すことができない」などというように『嫌いな機能』もあるのが一般的なのではないかと思うのです。

人間である以上は誰もが完璧な存在とはいかないことから『人間としての機能』という意味で自分が100%好きな部分のみで占められているという方は決して存在しないことだと思うのですが、ここで皆さんに分かってほしいのは「自分のことを好きになる=自分の機能を好きになる」という意味として考えてはいけないということなのですね。

皆さんのなかにはもしかすると『自分のことが好きな人=すべての面において完璧であり、他者よりも劣っている部分が何一つない人』などというふうに思われている方もいるかもしれないのですが、このように考えている限りは決して皆さんは自分のことを好きになることができないのではないかと思うのです。

確かにあらゆる機能、すなわち特定の能力でも容姿でも社会的地位でもすべてにおいて完璧であり他者よりも劣っている部分が何一つないスーパーマンのような存在になることができれば確かにその人は自らに誇りを持つことができるかもしれないのですが、それでも大抵の場合はそのような存在になるのは無理なのではないかと思うのですね。

前述したように我々人間は誰もが決して完璧な存在になることはできないことからすべての面において完璧であり、他者よりも劣っている部分が何一つない存在になるなどということは私を含め誰一人できないのではないかと思うのです。

もちろん特定の機能においてずば抜けた存在になることはできるかもしれないのですが、それでもそのような存在になれたとしても人間である以上は依然として自らに嫌いな部分があるものなのではないかと思うのですね。

例えば「史上最高のサッカー選手」「1,000年に1人の奇跡の美少女」「100年に1人の天才経営者」などというように『サッカーの才能』『容姿』『経営者としての才能』などという意味でずば抜けた才能を持ち、機能という意味で他に類を見ないような特別な存在になることができたとしても、そのようなずば抜けた才能を持っている方たちも当然ながら他の部分では他者よりも劣っていいる機能を持っているものなのです。

例えばサッカー選手としての才能は世界一であるもののメンタルが弱く非常に精神的に病みやすかったり、容姿は整っており顔立ちだけを考えれば史上最高クラスではあるものの身長が低くスタイルがそれほどよくなかったり、経営者としての才能は最高クラスであるものの生まれつき劣等感が強く他者に対する嫉妬心が強かったりなど、特定の機能においてずば抜けたものを持っている方たちがいたとしてもそれでも「すべての面において完璧な存在」など最初から存在しないということなのですね。

そしてまずここで皆さんに分かってほしいのは「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」というふうに考えていると、「自分を好きになる=すべての面において完璧な存在になる」というふうに考えてしまうことになる可能性があることから、「自分を好きになろう!」と思ってありもしない理想像を追い求めてしまうことになる可能性があるということなのです。

何度も繰り返すようですが人間である以上は他者よりも劣っている部分は誰にでもあることから、私を含め誰もが「すべての面において完璧な存在」になることなどできないということなのですね(ちなみに私は完璧からは程遠い存在です(笑))。

確かに能力という意味でも容姿という意味でも社会的地位という意味でも完璧な存在になり、他者よりも劣ってる部分が何一つないという状態になれば自らに誇りを持つことができるようになるかもしれないのですが、そのような存在になるのは誰であれ無理であるということなのです。

そしてこれが私が「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」というふうに考えてはいけないと主張する1つ目の理由となっているのですね^^

しかし実は私が「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」というふうに考えてはいけないと主張する理由はこの1つだけではなく、実は私がこのように主張する背景にはもう1つ別の理由もあるのです。

それではその理由とは一体何なのかということなのですが、それは「努力では改善することができない機能もあるから」というものとなっているのですね。

これは非常に当たり前の話なのですが、我々人間はすべての機能を後天的な努力で改善することができるわけではなく、やはり改善することができる機能もあればその一方で改善することができない機能もあるのではないかと思うのです。

例えば「スタイル(太っているor痩せているなど)」「頭の良さ」「運動能力」などに関しては後天的な努力によってある程度改善することができるものの、その一方で「容姿」や「スタイル(身長、足の長さ、頭の大きさなど)」などに関してはなかなか後天的な努力では改善することができないのではないかと思うのですね。

また当然ながら「スタイル」「頭の良さ」「運動能力」もすべてが後天的な努力によって改善することができるというわけではなく、やはりそのなかには努力によって改善することができない部分もあるのではないかと思うのです。

そのような経緯から考えるに「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」というふうに考えていると、特定の機能が原因で自らのことを決して好きになることができないという状態が生まれてしまう可能性があるということなのですね。

例えば自らの容姿が原因で強い劣等感を感じており「自分は容姿が悪いから自分のことを好きになることができないんだ!」というふうに考えている女性がいるとしましょう。

その女性は「容姿が悪い=自分のことを好きになることができない」というふうに考えていることから、これは裏を返せば「容姿が良くなれば自分のことを好きになることができる!」という主張になるということなのですが、それでもこのように「容姿を改善する」というのは後天的な努力ではなかなか難しい話なのではないかと思うのですね。

もちろん現代では美容整形という手段もあるのですが、それでも容姿を改善したいものの手術はしたくないという方も一定数はいるでしょうから、例え自らの容姿に劣等感を感じていたとしても美容整形という手段は使いたくないという方も一定数いるのではないかと思うのです。

そのような経緯から考えるにこのように「容姿が良くなれば自分のことを好きになることができる!」というふうに考えてしまっているという方はどう転んでも自分のことを好きになることができないという状態になるのではないかと思うのですが、それではこのような方は実際に自分のことを好きになることができないのでしょうか?

そこに対する私の答えは「NO」であり例えこのような方でも自分のことを好きになるのは可能だと思うのですが、それでもそのために必要なのは「容姿が良くなれば自分のことを好きになることができる!」という考え方を手放すことなのではないかと思うのですね。

例え自分のことを好きになる手段があったとしてもそれでも本人が「自分は容姿が悪いから自分のことを好きになることができないんだ!」という考え方を強く持っていれば自らのことを好きになるのはやはり難しいのではないかと思うのです。

そしてこのように私は「自分の機能を好きになることができない=自分を好きになることができない」という考え方は非常に危険であるというふうに考えているのですが、その背景にあるのが「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」という考え方の存在なのではないかと思うのですね。

要は「容姿が良くなる=自分のことが好きになれる」というふうに考えているからこそ「容姿が悪い=自分のことが好きになれない」というふうになってしまうのではないかということなのですが、これが私が「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」というふうに考えてはいけないと主張する最大の原因となっているのです。

「自分を好きになる=自分の機能を好きになる、機能が優れた人間になる」というふうに考えているとその機能が努力によって改善することができないものであった場合自分のことを好きになることができないということになるということなのですね(-_-;)

そのような経緯から私は「自分を好きになる=自分の機能を好きになる」というふうに考えるのは危険であり、皆さんにはぜひやめてほしいと主張しているのです^^

本当の意味で「自分を好きになる」ということ

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ここまで「自分を好きになる」と称して「自分の機能を好きになる」というふうに考えてはいけないというふうに主張してきたのですが、ここで重要なのが「それじゃあ本当の意味で自分を好きになるというのはどういうこと?」ということなのではないかと思うのですね。

おそらく皆さんのなかには私が前章で指摘したように「自分のことを好きになる」ということを「自分の機能を好きになる」「機能の優れた人間になる」というふうに捉えられていた方もいるのではないかと思うのですが、それでも私が思うにこのようなタイプの方は決して自分のことを好きになることができないのではないかと思うのです。

なぜなら我々人間はどれだけ『人間としての機能』を改善したとしてもやはり特定の分野において自分よりも優れた人間はたくさんいることですし、そもそも努力では改善することができない機能もたくさんあると思うからなのですね。

そのような経緯から考えるに我々人間は「自分を好きになる=自分の機能を好きになる、機能の優れた人間になる」というふうに考えてしまうと大抵の方は自分のことを好きになることができないということになるのではないかと思うのですが、それでは本当の意味で「自分のことが好き」と言える状態とは一体どのようなものなのでしょうか?

私が思うに本当の意味で「自分のことが好き」というふうに思えているという方は自らを含めすべての人間に関して「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができている方となっているのではないかと思うのです。

要はこのようなタイプの方は自らを含めすべての人間に関して「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができていることから、「私もあなたも彼も彼女も誰もが愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができているということなのですね。

そしてここで重要なのはこのようなタイプの方は自らを含めすべての人間に関して“無条件で”「愛されるべき大切な存在である」というふうに思えているということなのです。

ここで皆さんに分かってほしいのはこのように本当の意味で自分のことを好きになることができているという方は『人間としての機能』に一切関係なく誰もが「愛されるべき大切な存在である」というふうに思えているということなのですね。

そして『人間としての機能』に一切関係なく誰に関しても「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えているからこそ、自らに関しても「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができ、その結果自らのことを好きになることができるということなのです。

先ほどは「自分を好きになる」と称して「自分の機能を好きになる」ということを求めてしまう方について見ていったのですが、私が思うにそのようなタイプの方の考え方の背景には『機能が優れている人間であればあるほど価値がある』という価値観の存在があるのではないかと思うのですね。

要は『人間としての機能』が優れている人間であればあるほど『人間としての価値』があるということなのですが、そのような経緯から『機能が優れている人間=価値がある人間』というふうに考えることとなり、その結果「機能が優れた人間になるということが自分を好きになるということなんだ!」というふうに考えてしまうことになるのではないかと思うのです。

例えば「サッカーが上手な人間はサッカーが下手な人間よりも価値がある」「容姿が整っており多くの異性からモテる人間は容姿が整っていない人間よりも価値がある」「社会的地位が高く年収が高い人間は社会的地位が低い人間よりも価値がある」などというふうに『人間としての機能』が優れている人間であればあるほど人間として価値があるというふうに考えているのではないかと思うのですね。

その結果「サッカーが上手になれば自分のことを好きになることができる!」「容姿が整って異性からモテるような人間になれば自分のことを好きになることができる!」「社会的地位が高く年収が高くなれば自分のことを好きになることができる!」などというふうに『機能が優れている人間』になれば自分のことを好きになることができるというふうに考えることになるのではないかと思うのです。

しかし実際にはどれだけサッカーの練習をしたとしてもやはり努力だけでは限界があることから自分よりもサッカーが上手な人はたくさんいたり、容姿が整った人間になりたいと思っても容姿はほとんど努力によって改善することが無理であったり、社会的地位が高くなったとしてもそれは一時的なものであり1,2年もすればその地位から落ちてしまったりなど「機能が優れた人間になる」もしくは「機能が優れた人間でい続ける」というのは非常に困難、もしくはまったく無理であるということも少なくないのではないかと思うのですね。

そしてそのような経緯から私は「自分を好きになる」と称して「自分の機能を好きになる」ということを求めてはいけないというふうに主張しているのですが、それでは本当の意味で自分のことが好きな人というのは一体どのような存在なのでしょうか?

それが自らを含めすべての人間に関して「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができている方なのではないかと思うのですね。

要は『人間としての機能』によって『人間としての価値』が決まるというふうには考えておらず、自らを含めすべての人間に関して無条件で「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができている方となっているのではないかと思うのです。

このようなタイプの方は『人間としての価値』と『人間としての機能』には関係がないと考えていることから、例え自らの機能に嫌いな部分があったとしてもそれでも自らに関して「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができるのではないかと思うのですね。

人間である以上は誰もが自らの機能に関して嫌いな部分があるものだと思うのですが、大事なのはそれも含めて自分のことを好きになることができることなのではないかと思うのです。

『人間としての機能』に関係なく無条件で誰もが「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができているという方は『人間としての機能』によって『人間としての価値』を定めないことから、例え機能という意味では自らが劣った存在であったとしてもそれでも自らに関して「愛されるべき大切な存在である」というふうに感じることができるのではないかと思うのですね。

その一方で『人間としての機能』によって『人間としての価値』が決まってくるというふうに考えているというタイプの方は『機能が優れている人間=価値がある人間』『機能が優れていない人間=価値がない人間』というふうに考えることから、自らの機能に気に入らない部分があると「自分は価値がない人間なんだ!」というふうに考えてしまうことになるということなのです。

しかし大事なのは自らを含めすべての人に関して「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることであり、決して『人間としての価値』が『人間としての機能』によって決まってくるというふうに考えてはいけないのではないかと思うのですね。

このように考えることができるようになると当然自らに関しても「愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることができるようになることから、本当の意味で自分のことを好きになることができるのではないかと思うのです^^

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