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"ゆっくりとした批評性"という光明。書評『書くための勇気』

誰かが書いた文章は読まれるだけでなく、誰かの「書く」導線ともなる……。こんな指摘ではじまる『書くための勇気:「見方」が変わる文章術(川崎昌平 著/晶文社)』を読んだ。

毎日、毎時、毎分、毎秒、たくさんの文章や動画が世界中でアップされ続けている。それだけたくさんの人がさまざなことを考え、書き、発信している。
それに比べて自分はどうだ。
誰かの主張を見聞きすればするほど言いたかったことが色あせて、ひと文字も書けなくなってしまうことが何度もある。

「書きたいけど、書けない」。

わたしを含めたそんな読者に、著者の川崎さんは提案する(以下、大意)。
つらくても言葉を殺さないで欲しい。
読み手と書き手は双方向の関係だから、それを活かして、読み手と書き手がいい変化を与え合えるような文章を書こう。
それには、「批評性」「言葉」の練磨が必要だ…。

批評性とは異なる価値に接点を見い出すこと

勘違いしやすいけれど、批評は何かを否定したり、白黒をつけたり、誰かを論破するための技術ではないという。
「批評性」とは、世の中で見過ごされてしまいそうな価値を丁寧に見つけ、観察し、思考して自分の言葉にしていくプロセスそのもの。
自己主張を貫くために批評するわけではなく、むしろ異なる価値観や意見に出会ったときに接点を見い出そうとする態度こそが「批評」に通じるという。

この「批評性」の効能は、一人ひとりが批評という文章ジャンルに向き合うことで多様な「言葉」が必要になり、語彙や表現が豊かになっていく点にある。言葉が育てば思考も育つ。各々が発見した小さな価値が、「批評」によって初めて言語化され、世の中へと伝わりやすくなるのだ。
つまり批評を書く行為は、価値・言葉・表現の多様性を守ることでもある。それがこの本の一貫したメッセージだと感じる。

書くのをためらう気持ちも多様だから

さて、「書きたいけど、書けない」読者にはそれぞれ事情があると思う。
けれど、インターネット普及の前と後とでは「書けない理由」がだいぶ違うのではないだろうか。

『書くための勇気』で川崎さんが想定している読者は、ネットでの「炎上」や「批判」を恐れて書くのをためらっている若者たちだろう。しかし20世紀に若者だった人間からすると、書くのをためらう理由は他にもある。
叩かれるうんぬん以前に「黙るしかない」か「なにも言えない」のだ。

1992年、国連の地球サミットで生物多様性条約が採択されて以来、環境問題を論じる上で不可欠だった多様性という言葉は、30年近く経ってより広い意味を持つようになった。それとともに、簡単で便利だった「否定」や力強い「断定」の言葉は使いにくくなっている。安易に使えば「多様性を認めるなら否定しないでよ!」と叱られてしまいそうだから。

わたし自身、何かを主張するために対極のものを「否定」する話法に頼りっきりで、いつのまにか否定形で話すのが癖になっていた。
調子に乗ってバッサバッサと切り捨てたモノが誰かの大切なモノだったりして、「しまった」と後悔したことも多い。
言葉使いの癖はなかなか抜けないから、否定以外の方法でなにかを主張したり支持したりする訓練をしてこなかった人は、多様性の台頭によってとりあえず黙るしかなくなった

一方で、「多様な社会ならば、わたしの主張も認めろ!」という理屈を盾に、内心「どこか納得できない」「なにかがおかしい」という感情が膨らんでいく。つまり21世紀になってから「感情は爆発しそうだが、言葉にできない」という非常に不健全な状態に陥りやすくなってしまった。

そういうジレンマを抱える人に、「批評」はきっと向いている

『書くための勇気』には、「批評」の前に「観察」に時間をかけることの重要性が繰り返し書かれている。批評する対象の良いところも悪いところもよくよく観察し、背景や歴史も調べて、考えつくした先にやっと言語化をする。
そうして時間をかけて出てきた「言葉」たちなら、むやみに誰かを傷つけることはないだろう。
「ゆっくりとした批評性」は、誰かを否定したり傷つけたりしないで自分の主張を表明できる数少ない方法だ

迷いながら書く、を認める珍しい文章術の本

わたしは「書きたいけど、書けない」歴が結構長いから、たくさんの文章術本に手を伸ばしてきた。しかし手にした本から「別に無理して書かなくていいよ?」と突き放されることが多々あった。
言葉は武器になるから相応の覚悟を持って書け、と言いたいのかもしれない。

その点、『書くための勇気』は新鮮だった。
さまざまな価値を伝える批評を書こう、という本だから、多様な文章や多様な書き手の存在も認めているのが伝わってくる。
それが光明になる。
誰に・何を・どう書いていいかわからない人に、さまざまなとっかかりを丁寧に提案してくれる著者の態度が、書きあぐねる読者に勇気をくれるのだ。

たとえば、なにもかも否定する癖がついている場合は、そこから文章を書くとっかかりを見つければいい。

「悪い」が明らかになれば「よい」への道筋が見つかります。「つまらない」の理解は「おもしろい」の示唆につながります。そうやってある部分を批評することで、部分を含む全体の構造を(よい性質のものに)変えようとすることが、批評の目的になるのです。
『書くための勇気』43頁より

負の感情が爆発しそうという場合は、感情をよく観察して「自分とは異なる感情」を見つける作業から入っていくのが良さそうだ。

(前略)気分を害したり、あるいは逆に喜びに満たされたりしてしまった状態では、まだ筆を執ってはいけません。「なぜ俺は怒りを覚えたのか?」「どうして僕はこんなに喜んでいるのだろう?」といった分析を実施し、確実な解答を見つけてから、書くようにしたいものです。(中略)分析にコツというものがあるならば、「異なる感情」を想定し、組み立てることだと私は思います。
『書くための勇気』55頁より

いやいや、確実な解答を見つけてから書くなんて無理。答えがわからない。という場合は、迷いながら書いていい、という言葉が励ましをくれる。

迷い、躓き、転びながら、その過程そのものを肯定しつつ、文章を進める…… 一般的な文章技法を紹介する本では絶対に認めてくれない方法論でしょう。しかしながら、文章を書くという行為は、単に整った思考のアウトプットではありません。文章自体が、書く行為自体が、書き手にとって自分の思考を熟成させるプロセスとなるべきなのです。
「書くための勇気」101頁より

ちょうど上に「一般的な文章技法を紹介する本では絶対に認めてくれない方法論」と書かれているように、「迷いながら書く」を認める文章術本は多くはない。成果に直結しにくいから。
けれどもこの本のような「ちょっと面倒くさい方法論」が礎を作ると思うから、2020年代には見直されてあたりまえになってほしい。

冗長ともいわれる長文を解釈する

『書くための勇気』は、迷える書き手の実践者である川崎さんが、思考の軌跡を隠さずに残してくれた本だ。全294ページにわたり、批評の概念を説明するだけでなく、実際に文章を書くための技術も60項目以上紹介されている。きっと読者それぞれの性質に響く項目が複数見つかると思う。

文章量の多さは、難点という見方もできる。
読むのに骨が折れるし、紹介されている文章術はどれも「早く上手く書ける」のような即効性を持たない。全ページを通して「ゆっくりとした批評性」の効能が語られ、推奨されている。
そのせいか、著者の作品についてネットのレビュアーが口にする批判、いや批評には「冗長すぎる。わかりにくい。矛盾がある。」のような意見が散見される。
しかし冗長でわかりにくいと感じるのは、著者が読み解く楽しさを仕掛けているせいかもしれない。またそもそも、矛盾を内包しようとする批評性と、わかりやすさは比例しづらいのだ。

わかりにくいものに出会ったときは、急いで判断を下さずに、まずは自分の感情を疑おう。異論反論が多いほど、逆に激しく同意するほど、その感情を咀嚼し思考して「批評性」を実践するまでには時間がかかるのだ。
感情と状況の観察と分析に時間をかけよう。
わかりにくいものは、多様な解釈を呼び込む「余地」をたくさん持っているのだから。
急いでしまうとそれに気づけない。
わかりにくさを諦めるな。

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川崎さんがcakesに連載した『ぽんぽこ書房 小説玉石編集部』を初めて読んだとき、“希望”と“絶望”のように両極端に見える価値を混ぜ合わせて、“優しさ”を醸成しているような魅力があった。その作風の源にも「ゆっくりとした批評性」が脈々と流れているのだろうと思う。

『書くための勇気』を初読してから8ヶ月もかかったが、前回のnote「感情を元手に文章を書く危うさについて」は、初めて批評性を意識して感情を抑制しつつ迷いながら書くことができた。
批評は疲労。しんどい。
けれど続けていきたい。わたしの書く文章が、この本からしっかりと勇気を受け取った実証になればいいなとも思っている。

こちらも一読していただけたらとっても嬉しい。


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