![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/34421645/rectangle_large_type_2_75184e0f99b22a69cfa1a3421239c903.jpg?width=1200)
フィクションに救われる/書くことは難しい④
わたしはあまり小説を読みません。
ただ、学生から社会人になる時、たくさん小説を読みました。今から思うと、フィクションに救われていた、という実感があります。
以前、日記を書く時にどうしてもナラティブな形式に寄ってしまうという文章を書きました。
今回は少し内容が変わって、フィクションに救われたという話です。どうぞお付き合いください。
就活と小説
大学生の頃、親しくしてもらっていた友人が、作家の恩田陸さんの「光の帝国」という本を薦めてくれました。恩田さんは同じ東北生まれの方で、最近では「蜜蜂と遠雷」という本を出されています。映画化もされているので、有名だと思います。
就活の頃、わたしは恩田さんの本を買い漁っていました。
どちらかというと就活がうまくいかなかったわたしは、M2の冬(つまり卒業間際です)に内定がありませんでした。
就活はしていたのですが、目ぼしをつけていたところは夏頃までに全滅で、さてどうしよう‥と困っていました。
この頃から夜眠れなくなってしまって、2時3時頃にやっと眠りにつく、という感じでした。だいぶ参っていたように思います。
そんな時、わたしは小説を買い漁っていました。
恩田さんの本を片っ端から読んでいました。読むのが遅いので大した冊数を読んだわけではないのですが、読んでいないとどうしようもない、という感じでした。面接のために質問を想定して、答えを考えて、自己分析をして、過去のエピソードを思い出し、磨いて、磨いて‥‥。と頭を働かせていると、常に心が休まらない、そんな感じでした。家でじっとしていると、頭が勝手に動き出す。どこがいけないか、どうしたら改善できるか‥。
そんな時に、小説を読むときは心穏やかになれることに気づきました。
反芻、省察、観察者効果
反芻と省察という言葉をご存知でしょうか。
調べてみるといくつかオープンアクセスの論文が出てくると思います。
そのうちある論文(※1)を参考に、用語の説明だけします。
反芻
自分に注目する行為のうち、ネガティヴで慢性的、持続性が高い。
自分への脅威・不安等に動機づけされる。
省察
自分を理解することやメンタルヘルスの促進に寄与する。
自分への好奇心や興味により動機づけされる。
就活中は、どうしても反芻が優位になっていました。「ただ居る」ということが困難になって、時間があるといつも頭が勝手に反芻を始めてしまう、という感覚でした。
あるいは観察者効果も、この話に関係しそうです。就活は、基本的に自分が他者から評価される、というのが続きます。面接がまさにそうですね。誰かに見られている、誰かに評価されている‥という期間が続くと、どうしても自分に注目する時間が長くなります。そして、普段はできていることにまで注目して、大丈夫か点検する。同時にコミュニケーションも取る‥ということをしているうちに、認知資源が枯渇してへろへろになってしまう、という感じでした。
そんな状態でも、小説を読んでいるときは、うまくその場に居るということができました。
環世界をジャンプさせる装置
「暇と退屈の倫理学」(著 國分功一郎)の第6章にて、「環世界」という概念が紹介されています。
私たちは普段、自分たちをも含めたあらゆる生物が一つの世界のなかで生きていると考えている。すべての生物が同じ時間と同じ空間を生きていると考えている。ユクスキュル(引用者註:エストニア生まれの理論生物学者[1864‐1944])が疑ったのはそこである。彼はこう述べる。すべての生物がそのなかに置かれているような単一な世界など実は存在しない。すべての生物は別々の時間と空間を生きている!(「暇と退屈の倫理学」第6章p263‐p264より)
ダニにはダニの、人間には人間の環世界がある。そして同じ人間の中でも、例えば森を散歩する人と、狩りをする猟師、植物を採取する植物学者それぞれが経験するのは、一つ一つ別の森だ、とこの本では続きます。本筋ではこのあと、ハイデガーのユクスキュル批判を検討し、退屈についての議論を進めていきます。ここはすごくスリリングです。ぜひ読んでみてください。
人間は、世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。
(「暇と退屈の倫理学」第6章p299より)
第6章に示されている國分さんのこの考察は、非常に印象に残りました。
就活でへとへとになっていた頃のわたしは、退屈していなかったのかもしれないと思います。反芻が暇を埋め尽くしていました。
そして退屈していなかったということは、環世界の移動がうまく起こっていなかった、あるいは移動の自由度が相当に下がっていた、ということなのでしょうか。
今思うと小説は、自己注目のアイロニーでガチガチだったわたしを、別の環世界に強制的にジャンプさせてくれる装置だったのかもしれないと思います。
フィクションに触れることは生きることそのものなんだと、そう思いました。
おわりに
最後に、ねこやなぎの好きな曲の歌詞を紹介します。
電気じゃ 闇はうつせないよ
焼き付けるには そう 嘘も連れて目の前においでよ
(フィルム 星野源さん)
今年の春から、コロナの影響で厳しい時期が続いています。もう半年近くになりますね。でも、わたしたちの生活だって、なんとか続いています。たまには肩の力を抜いて、嘘やフィクションと一緒に遊びましょう。
(ねこやなぎ)
引用
1.「反芻に対する肯定的信念と反芻・省察」
著 高野慶輔、丹野義彦
(パーソナリティ研究 2010 第19巻第1号15-24)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?