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『人魚とビスケット』 J・M・スコット

開いた本のページから冒険の世界が、熱気を巻き起こしながら立ち上がり、読み手を引きずりこむ。そんなファンタジー映画のような現象を起こす小説だった。
ただしその冒険は輝くファンタジーからは程遠い、限界極限サバイバルである。

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一九五一年三月七日水曜日、ロンドンの〈デイリー・テレグラフ〉紙の個人広告欄に次のような広告が掲載された。

人魚へ。とうとう帰り着いた。連絡を待つ。ビスケットより

冒頭は探偵小説のようだ。
人魚とは、ビスケットとは何者か。
語り手である作家が、その謎めいた新聞広告に興味を抱いて書き手とコンタクトを取り、ある過去の出来事を知るに至って、その内容を書き起こしていく。
その出来事とは、第二次大戦中に起きた、壮絶極まる漂流劇だった。

サン・フェリックス号は約二千トンの商船で、五つの海をまたにかけて航海し、寄港可能な港で荷を積みこんで輸送していた。・・・一九四二年一月、船はシンガポール港に入った。日本軍の脅威を前に、この国際都市に住む人々の多くは必死の思いで脱出先を求めていた───


商船サン・フェリックス号は日本の脅威から逃れるヨーロッパやアジアの人々を乗せて出港する。
しかしある夜インド洋の上で、(おそらく魚雷の攻撃のために)船はあっけなく沈没、乗員乗客は全滅する。ただ4人を除いて。
生き延びたのは、波間に頼りなく浮かぶゴムのラフトにたどり着いた3人の男と1人の女だった。そのうちの2人が、冒頭の人魚とビスケットだ。
この4人の男女の漂流記こそが、物語のメインであり圧巻の読みどころとなる。

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・・・これぞまさに極限状態。
島影一つ見えない海の上、照りつける太陽から身を隠すものもなく、飲料水すらない。
想像を絶する飢えと渇き。容赦なく肌を焼く灼熱の日差し。夜の嵐に鮫の恐怖。平常心を保つ力が一瞬でも緩めば、たちまち絶望と狂気に侵されてしまう。
その真に迫る描写に、ぐいぐいと引き込まれた。読んでいる場所が自宅のリビングであれ駅のホームであれ、読み出せばあっという間に周囲の音は消え失せ、気づくと手も眉間も力ませて、息を詰めて読んでいた。

4人は互いに素性も知らぬ者同士。ゴムボートの上で、そしてたどり着いた無人島や、難破船の残骸から手作りしたイカダの上で、互いに行動や発言で探りをかけ合い、緊迫した心理戦を繰り広げながら彼らは生き延びていく。。。
無理。絶対無理。と言うしかないような状況で、人間の頭と体がどうなっていくか。リアルな描写に五感が苛まれ、とことん苦しいのに、没頭して読み進めてしまう。


文庫版にして190ページの漂流譚を時を忘れて読み切ると、物語は語り手とビスケット達のいる現在に戻り、ゴシックなラストまでスピード感を持って読ませていく。思いもよらない人魚の正体が最後に明らかになる、その手際も鮮やかだ。
特段奇をてらうようなストーリーではなく、どんでん返しに親しんだ現代の読者にとっては、驚愕するほどの展開ではない。だが、しっかりと驚かせてくれる。
とても面白い小説だった。

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本書の内容から「ウミガメのスープ」を連想される方も多いと思うが、この物語にはホンモノのウミガメのスープが登場する。全く食欲が沸く場面ではないにも関わらず、正直に言うと、そこまで読んで4人の飢えをバーチャル体験してきた私には、それが世にも魅惑的な食物に思えてしまった。ウミガメの卵などは特に。

もしこのような状況に置かれたら、果たして自分は4人のうちの誰に一番近い人間になるだろうか、そんなことを考えながら読むのもまた面白いだろう。いや、面白いというよりもひたすら苦しいのだが。

物語の筋とはほぼ無関係の脇役が、最初の方でこんなセリフを言う。
「風の強い時には、新聞を開けないから最初と最後のページしか読めんのだよ」
最初と最後以外のところが濃密濃厚肝心要である本書を読み終えてこのセリフに立ち戻ると、ニヤリとしてしまう。

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