【小説】パワハラ上司、ダメ社員になる
部下を持つすべてのひとへ。
ある朝、目を覚ますと自分の部下になっていた。
*
見慣れない白い天井、嗅ぎ慣れない布団の匂い。ゆっくり体を起こすと、そこは8畳ほどの散らかった部屋の中だった。6年前に買った3LDKの分譲マンションじゃない。妻も娘もいないし、トーストやコーヒーの香りもしない。
俺は布団から飛び出して、部屋の角にあった姿鏡の前に這っていった。
不健康に白い肌、細い目にハの字に垂れた眉。
この顔は……沢木だ。俺は沢木になっている。
俺の部下である沢木。すぐにテンパる沢木。話の結論が分からない沢木。大ごとになるまで報告しない沢木。言い逃れのために嘘をつく沢木。課の足を引っ張る、ハズレくじ沢木。
よりによって、そんな沢木になってしまった。なんてクソみたいな夢だ。
夢から覚める気配はなく時間が過ぎていく。カーテンを開けて外を見ると、マンションの間に大きな川が見える。沢木の家は確か浅草橋だ。会社までは40分くらいか。だとするとそろそろ家を出なければいけない時間だ。
……沢木として出社するのか?
しかしこのパターン、俺が沢木になっているということは、元の俺の中には沢木が入っているということなんじゃないか?
今できるのはそれを確かめること。とすると、会社に行くしかないか。
仕方ない。途中で夢が覚めることを祈りながら、身支度をはじめる。
沢木の歯ブラシで歯磨きをするなんて吐きそうだ。毛先が開ききっている。なんで買い直さないんだ。ワイシャツはどれもしわくちゃで襟が汚れている。アイロンを探すが見当たらない。こいつアイロンもないのか。仕事舐めてるのか。
だんだんイライラしてきた。
*
なんとか始業時間前に会社に着いた。出社するのがこんなに怖かったことはない。
課長の席は空いている。”俺”はまだ来ていないか。
とりあえず沢木の席に座る。PCを立ち上げるとアイコンが散らかったデスクトップが映る。こいつはフォルダ分けというものを知らないのか?
しばらくすると”俺”が出社してきた。心拍数が加速する。さてあいつは沢木なのか?
「沢木ぃ」
「あっ!え!?はい!!」
急に”俺”に呼ばれて、全身の産毛が八方に飛び散ったかと思った。
「バナー修正の件さ、クライアントがイメージと違うとか言って滞ってんだろ?お前あれ大丈夫なの?」
冷めた目つき、低く乾いた声。課の温度が一気に下がった。
「え?あ、えーと……はい……大丈夫です、はい」
「あ?なんだその返事?あんな小さい案件くらい、頼むからスムーズに回してくれ。なんかあっても俺は同行謝罪とか絶対しねぇからな」
「……はい、すみません」
チッ。音の棘のような舌打ちを飛ばしながら、”俺”は課長席に歩いて行った
……俺ってあんなに当たり冷たいのか?
もしくは、入れ替わって”俺”になった沢木が調子に乗ってるのか?
今の”村本課長”の中身は、俺のままなのか、あるいは沢木なのか。
あの態度、俺のような気もするし、そうじゃない気もする。でももしあれが俺のままだとしたら、沢木はどこに行ったんだ?
もう少し様子を見ないと。とりあえず今は沢木の仕事をするしかないか。
メールボックスには未読メールが81件。溜めすぎだろ、これじゃ大事なメールを読み飛ばすぞ。一個一個整理していくしかない。くそっ、なんで俺が沢木の尻拭いを……ああイライラする!
……でもこいつ、意外と案件いっぱい抱えてるな。いや、要領悪いから案件が溜まるんだ。それにキャパオーバーだとしたら「無理です」と声に出すのも部下の仕事だろう。上司は親じゃないんだ。
愚痴ってもしょうがない。今は俺が沢木だ。
……精算処理の書類。これは課長印がいる書類だ。
”俺”に押印を頼まないといけないのか。気が重いな。
気が重い?相手は”俺”だぞ。
「あの、村本課長」
「あ?」
うっとおしそうな返事……
「これに印鑑もらえますか」
「あー」
村本課長、もとい”俺”は面倒そうに書類に印鑑を押す。押印した書類はこちらに渡さない。自分で取れということか。手で渡すこともしないんだな。
「お前さ」
「はい?」
”俺”は全く別の方向を向いている。
「バナーの件、あれ、お前分かってる?」
「……分かっている、というのは?」
”俺”はキッとこっちを向く。唇の左側がめくれ上がっている。
「あれ以上レベル低い仕事、俺の課にはないぞ?」
「は、はあ」
「はあじゃねえよ……あれ回せなかったらお前に頼める仕事もうないっつってんだ。インターン生の方が役に立つじゃんマジで」
「…………」
「”あそこの課はあんな仕事で蹴つまずいてる”って、他から思われたらどうすんだ?死ぬ気でやれ。死ぬ気だ。腹なんて空かす暇ねえからな」
脳みそに墨汁を直接打ち込まれたような気持ち悪さを感じた。向けられた強い嫌悪の感情。胸が重い。
いや、責められているのは俺じゃなく沢木なんだ。悪いのは沢木だ。
とにかく早くここを離れよう。沢木がどこに行ったかなんて、もうどうでもいい。静かな場所で、夢が覚めるのをゆっくり待ちたい。
終業時間になったらさっさと帰ろう。沢木の仕事なんて知るか。
*
18時になり、逃げるように会社を出てきた。
”俺”は会議で席にいなかったから好都合だった。
浅草橋の沢木のマンションに戻ってきた。結局一日中、沢木のままだった。
それにしても、俺はあんなに沢木に強く当たっていたのか?
”俺”が吐いた言葉の棘が、背中の届かないところに刺さっているような気がしてぞわぞわした。
でもあのバナー修正の件は、”俺”が言うように難易度の高い案件じゃない。悪いのはやはり沢木。沢木にはあれくらい強く言わないと直らないんだ。この棘も、俺に刺さっているんじゃない。沢木が持つべき痛みだ。
コンビニ弁当を食べながら部屋を見渡す。端にベースが立てかけてあった。近くには汚れたアンプ。
あいつベース弾くんだ。意外だな。
いや、買ってみただけの飾りかもな。だって沢木だもんな。
小さなテーブルには何冊か本が積まれている。
『会社であした使える会話術』
『あなたの仕事はどうしてそんなに遅いのか』
『ビジネスマンはネクタイ選びが9割』
『仕事が5倍速になるミラクルロジカルシンキング』
『ダメ社員から抜け出すための33の方法』
……自覚はあるんだな。ところどころに付箋が貼られている。努力はしているのか。今のところあまり役になってないようだけど。
*
2日目。
目を覚ますと沢木のままで、それが受け入れられなくてもう一度寝た。お陰で始業時間ギリギリの出社になってしまった。
村本課長もとい”俺”は、静かに席に座っていた。挨拶をしてもこちらを向かない。イライラするのにも飽きたか?
席に座ろうとすると、沢木の先輩社員(かつ”俺”の部下)に呼び出されて廊下に連れて行かれた。
「おい沢木、なんでお前昨日先に帰ったんだ?」
「え?いや、あ……ちょっと体調が悪くて……」
「そうなのか?村本課長、沢木は帰ったのか?って昨日めちゃくちゃ探してたぞ」
「え……なんかあったんですか?」
「課長な、昨日の夕方に部長から『課の業務効率が悪い、お前の課は小さな仕事に時間を使いすぎだ』ってチクリと言われたらしいんだ」
「えっ?」
俺自身だから分かる。部長の評価は”俺”にとって何よりも大事なもの。そしてその怒りの矛先は多分……
オフィスに戻ると、課長席は空席になっていた。席に戻ろうとすると、近くの女性社員に呼び止められた。
「沢木くん……課長が、602会議室に来い、だって」
はあ、マジか。
会議室には、”俺”が両手で顔を覆って座っていた。
「沢木」
”俺”は手で顔を覆ったまま、低い声で話し始める。
「お前……何がしたいの?何ができるの?何になれるの?!」
いきなり語気を強めて棘を撃ってきた。”俺”は覆っていた手を外すと、顔は真っ赤だった。
「沢木……分かんねえか?お前、向いてないんだよこの仕事。なあ、俺はお前を諦めたよ。だって無理だろ?だからお前も諦めろ。……俺はお前をな、課のお荷物だと思ってたよ。でもよく考えたら、荷物は必要だから荷物なんだ。だからお前は荷物ですらなかった。これ以上はな、言わせんな」
これは俺じゃなく沢木に対して投げられてる言葉だ。そう言い聞かせてもどうしても腹が立ってきて、”俺”をキッと睨み返した。
「なんだあ、その顔……もしかして文句があるのか?俺はお前を捨てられるぞ?分かってんのか?」
”俺”の顔は赤を通り越して、錆のように赤黒く、醜く、にじみだしていた。
これが……俺なのか?
俺は目の前の男に恐怖を覚えた。飛んでくる完全否定、圧倒的嫌悪、凍りついた言葉が、次々に背中に刺さってピリピリと熱い。相手は俺自身なのに、何も言い返せない。
村本課長は、そのあとも俺に散々罵声を浴びせると、少し落ち着いたのか、「とりあえず今の仕事を死ぬ気で片付けろ」と言って、会議室を出て行った。
頭がフラフラして思考が進まなかったが、もう仕事を片付けるしかなかった。村本課長の目線に怯えながら、その日は日付が変わるまで仕事をし続けた。
会社を出ても解放された気がしなかった。終電に揺られながら、刺さった背中の棘が痛んだ。こんな状態で、まともな仕事ができるわけがない……
*
家に帰っても、狭い部屋の中でひとり。
俺はいつまでこのままなんだろう。家族に会いたい。
ぼーっと部屋を見渡していると、黒いデジカメが目に入った。手に取り、保存されていた動画をひとつ再生してみる。映っていたのは沢木で、ベースを持っていた。撮影場所は部屋の中。
沢木の演奏で低音が鳴り出す。デジカメに耳を近づける。俺は楽器に関しては素人だけど、その演奏が並のレベルじゃないことは分かった。首でリズムを取りながら複雑な音を奏でる沢木は、俺の知らない沢木だった。
こいつにこんな特技があったのか……
沢木という人間のことが少し気になってきて、今度はクローゼットを開けてみる。下段に本が並んでいて、その中に見覚えのある背表紙があった。
2007年の広告コピー年鑑。
同じものを俺も持っていたな。若手の頃に、勉強したくて買ったやつだ。1冊2万円もするから、薄給だった当時の俺にはきつかった。
裏表紙を見ると『2,000円』と印字されたシールが貼ってあった。古本屋で買ったのか。だからこんな古い年鑑を持っているんだな。
年鑑を開いてみると、大きな付箋にメモが書かれてあった。コピーに対する感想を書いてるらしい。
『ポイントは認識の変換。読んだ人の頭の中の鉛筆のイメージを180度変えるコピーだ!』
何をいっちょ前に言ってやがるんだ。
クローゼットには他にもたくさんの本があった。他の年のコピー年鑑、デザインの本、業界雑誌……どれにも付箋がたくさん貼ってある。
あいつ、広告クリエイティブがこんなに好きだったのか。だからウェブ系広告会社であるうちに転職してきたんだな。これだけ本を読み込んでいるってことは、半端な憧れじゃなさそうだな。
沢木がうちに転職してきたのは、4年前か。
メーカーのマーケティング部署から、中堅のウェブ系広告会社であるうちに転職してきた。課長に上がったばかりだった俺の下に、沢木がつけられた。
広告営業としては、覇気はなくて暗い。大量の案件をスピーディーに動かさないといけない仕事なのに、動きはのろい。
俺は沢木をすぐに嫌いになった。この地位を守りたくて必死だった俺にとって、沢木は邪魔でしかなかった。この仕事に向いてない人間をどうしてうちの課に入れるんだ、と人事すら恨んだ。
でもそういえば、沢木とちゃんと話したことなかったな。なぜこの会社に来たのか、何がしたいのか、何が得意で何が苦手なのか。しっかり耳を傾けたことはなかった。
課長として下手を打たないことばかり考えていた俺は、沢木と一度も向き合うことなく、すぐに俺の中で「邪魔者」にしてしまい、そのまま今まできてしまった。
なんだか、悪い気がしてきた。
とても、悪い気がしてきた。
スマホの通知音。メッセージが届いたみたいだ。
スマホを手に取るとロックが外れた。顔認証か。俺は今、沢木だもんな。
見ていいのか?いや、今は俺が沢木だから……
送り主は「カナ」
彼女か?あいつ彼女いたのか?いや、そんなことも知るはずないか。
『こうちゃん、返信来ないから大丈夫かなって思ってー』
沢木晃一。それで、こうちゃん、か。
『仕事でなにかあった?また課長に嫌なこと言われたりしてない?』
吐きそうになった。人って罪悪感で吐き気がするんだな。
しばらくすると今度は長文メッセージが来た。沢木、だいぶ心配されてるな。
『今の部署、思うようにいかなくて辛いだろうけど、こうちゃん、いっぱい勉強してるから、チャンス来たらきっとすぐ結果出るよ!くそ課長気にすんな!こうちゃんの才能見抜けない上司が無能なんだから笑
世の中に注目されるような広告制作に、携われるといいね。大学のみんなも、こうちゃんのことセンスあるって知ってるから、もちろん私も。だから、今は負けずに頑張れ!
お節介でごめん!一人で考え過ぎちゃダメよ〜私も頼っていいからね!』
ああ、ダメだ。涙が出てくる。
俺は部下を、自分の駒だと勘違いしていたんだ。俺の役に立つかどうかで良し悪しをすべて判断していた。でも、そのひとつひとつには血が通っていて心があった。そんなの当たり前じゃないか。当たり前なのに……
どうして部下を、沢木を、ひとりの人間として、ひとつの人生として、ちゃんと見てこなかったんだろう……
沢木が積み重ねてきたものを、俺は、簡単に壊せる地位と力を持っておきながら、その自覚もないまま、自分勝手にこいつの人生を荒らしてしまっていたんだ。
ああ、沢木、ごめんなさい。
すべては、弱い俺のせいでした。
本当に、ごめんなさい。
*
次の朝、俺は”村本課長”に戻っていた。
見慣れた天井、嗅ぎ慣れた匂い。家族の足音、トーストとコーヒー。ただいま。
あれは夢だったのだろうか。沢木は、沢木に戻ったのだろうか。
会社に行くと、沢木は席に座っていた。
「あ、おはようございます」
いつもの疲れた顔、疲れた声。沢木だ。
涙が出そうになった。
「……沢木」
「あ、はい?」
「俺……お前にずっと、きつい当たり方をしていたかもしれない。辛い思いをさせていたかもしれない。すまん。いや、ごめんなさい」
「え?!あ、いや、そんな」
「謝って済む話じゃないとは思ってる。だから、これから少しずつ償わせてくれ。まずはお前のことを理解したい……沢木の話、ちゃんと聞かせてくれないか」
沢木は目を丸くして俺を見ている。まあそうだろうな。びっくりするよな。
夢でもなんでもいい。神様だか誰だか知らないけど、大事なことに気付かせる機会をくれて、ありがとう。そして本当にごめんなさい。
俺は、目が覚めました。
*
「沢木さん、どうですかその後の村本課長は?」
「はい、すごい変わり様です。気持ち悪いくらい別人ですよ」
「それは良かった。沢木さんがこの実験にご協力いただいたおかげです」
「いえ。でもこんな技術が現実にあるなんて、まだ信じられませんよ。パワハラ上司矯正のための仮想現実プログラム……本人に自分のパワハラを直接体験させるなんて。今後、本当にこれが実用化されるんですか?」
「させますよ、絶対。彼ら、パワハラ上司たちは、言葉で伝えても分からない。自覚がないんですよ。だから身をもって知るしかないんです。これはそのための技術です」
「自覚がない……」
「沢木さん。もし村本課長が元に戻るようなことがあれば、そのときは必ずご連絡ください。我々は、パワハラ上司の存在を、決して、許容しませんから」
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