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【短編小説】わたしの間の悪い夫


わたしの間の悪い夫が死んだ。



夫の間の悪さったらなかった。

40年勤めた会社を定年退職する日、夫は街で事故を目撃した。
ミニバンの左折に巻き込まれたスクーター。轢き逃げだった。乗っていた学生さんはスクーターから投げ出されて、おむすびみたいに道の上をころころ転がった。夫は学生さんを介抱し、やってきた警察に顛末を伝え、さらには病院にまで付き添った。
定年祝いに花束を用意して待っていた会社の同僚たちは、結局その日、夫を労うことはできなかった。

十数年前にも似たようなことがあった。
その日は銀婚式で、わたしたちにしては贅沢な、東銀座のフレンチを予約していた。そんな日の夕方に夫は、宇宙の果てみたいに暗く肩を落とした若手社員に出くわした。
「おれでよかったら、話聞こうかえ?」
よりにもよってそんなことを言ってしまった夫は、心労で死地を彷徨っていたその若人を救うべく、真夜中まで居酒屋に付き合った。


さらに夫は間が悪いだけでなく、どんくさいのだ。毎度なにかに巻き込まれても、結局自分ではどうにも解決できないことが多い。

会社の定年の日、私が同僚の皆さんから花束を受け取って病院まで届けてあげた。銀婚式のときだって、あの人は若者相手にどう話していいか分からず、途中から私も居酒屋に赴いて、中年夫婦ふたりで彼を励ました。

間が悪くて、どんくさくて、不器用なひと。

そんな夫が死んだ。


夫が死んでしまってからも、わたしは気が気でなかった。
あの世がどんなところか分からないけれど、ひとりでは何ひとつうまくできない夫が、やっていけるのか心配だった。

心配で心配で、
心配すぎて、体調崩して、
わたしも程なく死んだ。



夫が死んで半年、遅れてわたしもあの世に至る。

あの世は、余った税金でつくられた趣味の悪いテーマパークみたいだった。いろんな国の文化が雑多に並んでいて、道がムダに広くて、人はまばら。空は晴れてるのになぜか薄暗くて、それがまた気持ちわるい。
そんな奇妙な世界で、わたしは夫を探した。

6時間くらい彷徨ってようやく見つけた夫は、濁った小池のほとりのベンチに、男の人と座っていた。
「あれ、あなたは」
男の人には見覚えがあった。彼もわたしが分かったらしく、わぁ、と笑ってわたしの手を握る。十数年前の銀婚式の日、夫とふたりで励ました彼だった。名前はたしか永川くん。
「あなた、しんじゃったの?」
わたしは不安な気持ちになった。彼はそれを察してか、食い気味に「違うんです!」と手を横に振る。
「自殺とかじゃないですよ!あのあと、おふたりのおかげで少しずつ心も状況も良くなったんです。ほんとに。でもそのあとガンにかかりまして、今に至るわけで」
「……それはお気の毒に。まだお若いのに」
「いえ、おふたりのおかげで、死ぬ直前まで幸せに過ごせました」
永川くんはそういって優しく笑った。

わたしは夫を見る。今の話がよく分からなかったのか、「ぽ」というかたちに口を開いている。生前、わたしが早口で話したらいつも夫はこの口になった。
「このひととはずっと一緒だったの?」
永川くんに尋ねる。
「2週間くらい前にばったり会いまして、それからずっとついてました」
「あらぁそうなの。よかったじゃない知り合いがいてね。ねぇあなた」
わたしにそう言われても、夫はまだキョトンとしている。
「なんなのこのひと?」
わたしは少し不快になって口を尖らせた。
「それが坂巻さん、生前の記憶消えちゃって……」
永川くんが弁明する。
「記憶、消えたの?」
「えぇ、この世界では遅かれ早かれ、生きてた頃の記憶は消えてくんです。個人差ありますが。生前の記憶なんてここではトラブルのもとでしかないですから。坂巻さんも実は昨日まで少し記憶あったんですが……」
「今日なくなったの?!呆れた!わたしがここに来たらコレよ、相変わらずの間の悪さね」
「まぁまぁ、坂巻さんを責めないで。でもすごいんですよ坂巻さん」
永川くんはそう言って、夫の腰の横に置いてある袋を指差した。青い厚手の生地でできた巾着のようなものがある。手にとってみるとずしりと重い。
「これは?」
「運の貨幣です」

運の貨幣?
彼は小慣れたようにそれについて説明をしてくれた。
人は皆、均一な量の運を持って生まれるらしい。運の消費のスピードは人それぞれで、ほぼ使い切ってあの世に来る人もいれば、多くの運を余して一生を終える人もいる。
その生前使いきれなかった運が、この世界では貨幣に交換される。若くして亡くなったり、運をあまり使わなかった人は、そのぶんあの世でいい暮らしができるというわけだ。

「で、その運の貨幣なんですが、坂巻さんの持つ量がとんでもなくて。70過ぎまで生きたのに、僕の倍はあります。これは驚異です」
わたしは、呑気に膨れた青い巾着を眺める。なんとなく夫に似てると思った。
「それって、生きてたころの夫の運がとんでもなく悪かった、ってこと?」
「いえ、運は良い悪いではないんですよ、実は。運なんて自分では決められないことのように思っていたけど、本当はみんな無意識のうちに、そこで運を使うかどうか都度決めながら生きていたんです」
運は自分で決めて使っていた?70の婆さんには理解に少し時間のかかる話だった。
「つまり……?」
「つまりですね、貴方の旦那さんは、自分のためにほとんど運を使ってこなかった。だからこんなにたくさん余ってるんです」
「……ああ」
わたしは記憶を落としたその老人をじぃっと見る。

間が悪くて、どんくさくて、不器用なひと。
そうかこのひとは、ずっと運を使わなかったのね。自分のことなんてちっとも顧みず、他の誰かのことをいつも気にかけていたのね。

そう考えたら、急に昔の思い出がにわか雨みたく降ってきた。

はじめて会った日。
彼は突風で飛ばされたわたしの日傘を追いかけて、土手を転げて川に落ちた。すんでのところで傘は掴んだが、結局、川に落ちた拍子に傘は折れてしまった。彼はそのことを何度も謝った。泥まみれの自分のことは顧みずに。

そんな風にいろんなものを取りこぼして、損をして、傷ついて生きてきた。それでもこのひとは、わたしや誰かのために、ずっと笑っていた。

ああ、わたしの大切なひと。
世界一間が悪くて、
世界一どんくさくて、
世界一すてきな、わたしの夫。

わたしは、夫の隣に腰をかけて、顔を見る。夫は「ぽ」の口。
しばらくすれば、わたしの記憶も消えるのでしょう。そしてわたしは、この薄暗い奇妙な世界で、名前も思い出せないこのひとと、ずっとずっと一緒にいるんでしょう。

それでもいいわ。
それがいいわ。


「ちなみに奥さんの運の貨幣は、確認しました?」
永川くんがふと尋ねる。
あら、と思ってポケットの中に手を入れてみると、みかん大くらいの可愛いがまぐちが出てきた。中には銅貨が5、6枚。
「少ない……ですね」
永川くんは、小さな声で気の毒そうに感想を述べる。

だけどわたしには少ない理由がわかる。

わたしはきっと、このひとに出会うために、たくさん運を使ったのでしょう。


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