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自分のだめな所

昨日は、再び「自己愛性パーソナリティ障害」についての動画を見た。最近著書を拝読した、益田裕介医師のチャンネルだ。

改めて見てみて、ほとんどが自分には当てはまらないことに気づいた。多分、父から自己愛性パーソナリティ障害の気質はもらっている可能性があるものの、育てられた環境によってだいぶ抑えられたのだと思う。

その点については、「父のようになりたくない」と思わせてくれた両親に感謝している。私も、父のようにわがまま放題に育てられていれば、周りの人に迷惑をかける人間になっていたかもしれない。

とはいえ、私も全く以て迷惑をかけない人間ではない。普通に生きていればミスもするし、横着をしたりもする。そういうのを、認められるようになった所が、「大人になったなぁ」と感じる所である。

昔の私は、何事も完璧でないと気が済まなかったように思う。何かに挑戦するとき、必ず減点方式というか、「ここまでできた!」ではなく、「こんなにできなかった」と思いがちだったように思う。

とりわけ人間関係に関しては、父親との攻防に慣れていたので、「自分は察する能力に長けた人間だ」とさえ思っていた。相手の気持ちを読み取り、最適解のカードを選ぶことができる、と本気で思っていた。

しかし、一方でそんなコミュニケーションが疲れるな、とも思っていた。友人と話した後、「楽しかったな〜」と思うのではなく、無意識にため息をつく自分を見て違和感を覚えた。

私は、誰のために会話しているのだろう?相手が気持ちよくなるように会話してないか?本当の自分の気持ちを話しているのだろうか?当時の私には分からなかった。

実家にいる頃の私は、目の前の人間を怒らせないことが最重要課題だった。怒られるのは嫌だし、怒らせないよう機嫌を取るのが得意だと思っていた。

しかし、それを続けた結果、私は自分の気持ちが分からなくなった。自分は何が好きで、何が嫌いで、物事に対してどう思っているのか。自分がどんな人間か分からないのは、たまらなく怖かった。

夫に育て直しをしてもらった今は、徐々に自分という人間が分かって来たような気がする。私は、母親が言うほど“いい子”ではないし、案外性格も悪いのだと分かってきた。

世の中についても、一面的な部分を見ただけで信じすぎていたように思う。箱入り娘として育てられ、なまじ純粋なばっかりに、テレビで言っていることをそのまま信じたり、人は嘘をつかないのだと思い込んだりしていた。

実際は、綺麗事や建前の部分が大いにあるし、それがあるおかげで世の中が成り立っているといっても過言ではない。聖人君子に見えても、信号無視くらいはしたことがあるかもしれないし、だからといって、悪い人ではないのだ。

人間も世界も、一点の曇りもなく真っ白なんて不可能だ。そして、黒だったり、白だったり、グレーだったり、色んな色が混在しているからこそ面白いのだと思う。

私も、自分のだめな部分や、どうしょうもない部分を、少しずつではあるが愛せるようになってきた。そもそも、私は静かな邦画が好きなのだが、その主人公たちは決まって、うだうだ言ったり、ぐるぐる悩んだりと、すこぶる人間臭いものだ。

齢30を越えて、ようやくそう思えるようになってきた。完全や、完璧といった概念を捨てることによって、世界が開けたように思う。

少し昔の寿命である60代で死ぬとしても、まだあと半分人生が残っているのだ。思い通りにならなかった過去を振り返るより、これからの未来をカラフルに過ごしていきたい。




そんな事を考えた秋の日。
おやすみなさい。また、あした。

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