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ポスト○○主義 キャリア・カウンセリング/キャリア開発のための人事制度講座(35)

 先日、とあるセミナーの紙上講座を読む機会がありました。
 公開の講座の逐語記録を掲載したものです。
 テーマは成果主義と評価制度に関するものでした。
 今、旬ですねこのテーマは(註:2004年当時も旬で、今=2021年=も旬という。いつまでポスト成果主義やっているんだろう…ってはなし)

★ポスト?

 そういえば、冒頭から寄り道をしてしまいますが、某経済紙系の有名なビジネス誌(といえばもうお分かりかと思いますが)、の別冊の表紙に「ポスト成果主義・・・」という字がありました。
 あのビジネス紙の見識もここまでかとがっくり。

 なぜかというと第一に「ポスト・○○主義」というのは、何も語っていないと同じことだからなんですよね。
 ポスト、つまり「~の次」を言っているだけで、これだけではどこに行こうとしているのかは言っていません。電車で言えば、「本日はご乗車いただきありがとうございました。次の停車駅は、東京駅の次でございます」といっているのです。東海道線なら新橋、東海道新幹線なら品川、山手線内回りなら神田、外回りならば有楽町、どの路線に乗るかによって違います。自分が乗っている線が分からなければ「東京駅の次の駅です」では案内になっていません。知りたいのは何線に乗るか‥‥では?
 この別冊では、目次では「カネよりやる気で企業は突き抜ける」とあって、記事は「ブレークスルー」をキーワードにして展開しています。ここまで見ればようやく、次の駅とは「カネで報いるのではなくてやる気に応える」ということか? と分かってきます(ただ、あぁまたあの会社の例なのか・・・という記事が多いのですが)。

 「カネよりはやる気」という表現を見て、この編集者にとって成果主義とは「カネで報いるシステム」と捉えていたのだなぁということが分かります。これが二番目の失望。
 成果主義というのは、「仕事の成果に着眼しよう。その人の”能力”という、潜在的なものと顕在化したものとが混じり合った曖昧なものだとか、年齢(社歴)だとか、働いた時間の長さだとかではなくて、”何をなし遂げたか”にフォーカスしよう」ということだと私は思います。「成果」の意味からするとそうです(この辺りはこのめるまがの14号15号でも記しています)。
 自分の仕事の目的は何か、なんのためにどんな結果をもたらすことを期待されているのかをきちんと把握せず、とりあえず目の前に来た仕事を片づけ続ける-という仕事の仕方では、能力のある生産性の高い人のところへ仕事が集中します。
 高橋伸夫さんが指摘しているように、成果を出した人に仕事で報いるようになっていて仕事が集中するのであれば、集中したとしても納得できるでしょう。しかし、多くの場合はやりたくもない仕事が回ってくることの方が多く、なんで自分のところにはこんなに…とアンバランスが発生します。ここで処遇条件さえも同じであると、この不合理は一層拡大することになります。
 また、達成すべき成果を意識せずに仕事をするということは、どこまでやらなければならないかという終わりを見失わせることになり、結果的に「できるだけ多くの仕事」をしなければならなくなり、労働時間の長期化を招くのです。
 周りを見てください。
 働く時間が長いのは、要領の悪い人、生産性の低い人ではなくて、仕事のできる人、生産性の高い人ではありませんか?
 成果は何かということを忘れてしまうと、やればやるほどつらくなってしまうんです。
 だからこそ「成果に着眼する」ことの大切さを成果主義は求めようとしていたのです。ところがそれを評価・処遇問題(カネで報いる)に還元してしまったところが、人事政策上の失敗の原因。成果主義そのものが原因ではないのです。

 また、別冊の言うとおり、ポスト成果主義は「やる気がカギ」になるとすれば、そのやる気を左右するのは、自分が達成すべき成果はなんだろうか?-ということをきちんと本人が自覚できていること(自覚できるようなシステムになっていること)が不可欠です。
 その意味であれば、先の話は「ポスト」成果主義なのではなくて、「本来の」成果主義がそうなのでです。ポストということではなく、言ってみれば「改めて」成果主義なのではないでしょうか?

 言葉の意味、定義を確認することなく、曖昧なままで、感覚的に用いると、それは流行語になってしまいます。理解の基盤が違うままに話をしていては議論にはなりません。流行語で経営を、経営人事を語ることは避けなければなりません。

 話が脇道に逸れますけど、ついでに言うとポスト○○と同様に、脱○○○○も怪しいです。
 脱してどこへ行こうとしているのか? そこは分からないけれども、どうもこうではなくなったと言っているに過ぎないわけです(従前は、だから成果主義らしいぞという文調が多かったのですけれど、その成果主義からも脱しようというのですから、なんだかヤドカリみたいですねぇ・・)
 マスコミだけでなくコンサルティング会社もそうですよ。
 脱○○主義というのは、答えは持っていませんということを言っていると思った方がよいと思います(新・○○主義のほうがちょっとましかも)。

 キャリア・カウンセラーの方も、こうした流行語に踊らされないように!!
 「今はポスト成果主義の時代ですから。成果主義はもう古いんですよ」なんて言っていては勉強不足ですよ(中には成果主義と結果主義とノルマ制との区分がついていないような方もいらっしゃるので、ちょっと心配)

★1:1:6:1:1

 ところでこのセミナー、参加していないので、これに対して意見を述べるのはフェアではないのですが、どうしても気になることがありますので取り上げてみたいと思います。
 このセミナーは成果主義下での評価制度のあり方をテーマにしたものでした。評価制度が混乱を来しているが、それは客観性ということにとらわれすぎているとセミナー講師は指摘しています。これは全くその通りで、このめるまがでも何度か触れてきたとおりです。客観性という言葉が「数字」に置き換わるとなお悲惨です。
 講師の方の基本的な考え方として、人材は(というか業績は)よいほうから、1:1:6:1:1に分かれるのだそうです。2:6:2の法則(これもすでに取り上げましたね。27号『ありの生活』をどうぞ)をもう少し細分化したもので、上下の2をさらに1と1ずつに分けられるということです。
 で、この上の1、1と下の1、1は誰が見たって明らかなのだから、こうした人をきちんと成果に対応した処遇にすればよいのであって、6の人を細かく区分しようとするからうまくいかなくなるのだ-そうです。
 う~ん、確かに。誰でもが分かる「できている人」「できていない人」を相応に処遇する、まぁ「誰でもがわかる」のですからもめないです…。当人だって分かっていることが多いですからね、だから納得性も高くなりそう。
 でも多くの管理職や人事担当者がどうにかしてあげたいと思っているのは「6」の人なんです。この人たちに、いかに「今」のできばえがどうなのかを伝えてあげるかに日夜苦労しているんです。
 見分けがつかないから、差も付けなければいい-というのは、よい方の差を享受している強者の論理に過ぎないのでは? そもそも6割といえば、半分以上の人たちです。この方たちに、いかに生き生きと仕事人生を送ってもらうかがテーマなんです。この人たちを、差がないとして十把一絡げに扱うというのは、やってもやらなくてもそう大差はないなぁと思う人を増やそうということではありませんか?

部下「私、今期頑張ったと思うんですけど」
上司「そうだね。でもね、トップ20%ではないからね。だから去年と一緒ね」
部下「・・・・・」
上司「でもね、下20%じゃないからいいじゃない」
部下「ま、それはそうなんですけどね…。去年と同じなんですね…」

 実際にコンサルティングをしていて、結果についてなかなか差をつけづらいから、4段階ぐらいの評価にわけている企業がありましたが、社員の不満は「よい評価をもらう人は、やはり誰から見てもよくできる人だから納得はできるけれど、そのゾーンに仲間入りできない限りは同じ評価というのはちょっとねぇ。やる気が起こらないですよ、最初から結果が見えているようで」というものでした。

 個別に見るということを制度化しようとすると実務的にはセミナー講師が指摘している通り、ほんのわずかな差を検出するような仕組みを考えなければいけません。
 また、かりに差を検出したとしても、それを処遇に反映した場合、評価を細分化すればするほど、処遇の差はそれほど大きな差にはならなくなる傾向があります。
 つまり手間暇かけた割には小さな差にしかならないということになります。

 それでも何とか本人に伝えてあげたいではありませんか!
 良いときも悪いときも!
 その方法はかなり難しい。
 難しいけれどやらねばならぬ。

 さて、そのギャップはどの辺りにあるのか? それは主体者にあるのではないかと思います。
 できるだけ伝えたい、部下の成長につなげたいと考える上司であれば、6割を一つに区分するのでは伝えきれないと思うでしょうし、じゃぁその中を3つくらいにわけますか、となったときには多分わけられるのだと思います。そして、きちんと説明もできる。
 一方、人事部門としては、全社的な視点で制度運用をしていくという役割もあるので、わけたらそれをすべての管理職が伝えられるよう、「仕組みとして整えておかないと」と考えます。仕組みとして整えるとすれば、管理職のマネジメント技量やコミュニケーション力にあまり依存しなくてもできるようにしなくては、と考えます。なので、「客観的」ということにより力点が置かれることになってしまいます。客観性を担保しようと標準化を進めてみたり、ガイドラインを作ってみたり…。そしてそれをやればやるほどマネジメント妓楼、人材育成力のある管理職からは情報過多、過干渉と受けとめられ、そうしたことに関心がない、あるいは技量が不十分な管理職からは「それだけでは足りないからもっと情報を!」ということになってしまいます。
 簡単にいってしまえば、ラインマネジメントを重視した人材マネジメントを目指すのか、集権的な人事部門主導の人材マネジメントを目指すのか、ということでもあります。
 すくなくとも、先に述べたような、「何を成し遂げるべきか、そして何を成し遂げたか」に重きを置く成果主義をすすめるのであれば、必要とされる成果、そしてそのことが組織どのように寄与したのかがきちんと分かる管理職が主導するラインマネジメントを目指すことは欠かせないと言えるでしょう。仕事の内容をよく知っている管理職と本人だけです。人事が口出しできるものではありませんから…

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