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”使えない同僚”という呪い

”呪う”を辞書で引くと、”誰かに対し強い恨みの念を抱き、災いを祈る行為”とあります。
”呪い”の項を見ると、”呪うこと”とあります。つまり、相手への強い恨みの念やそれがもたらす災いが、呪いということになるでしょう。

さて。日々色々なことを考えながら生活していると、心に渦巻く想念に対し、”これは呪いだ”と思うことが度々あります。呪いということは呪っている人間がどこかにいるわけで、じゃあ犯人誰?と考えた時、それは往々にして私自身なのです。しょうもない顛末、つまらない結末です。

本日はそんなお話。

使えない同僚

私はここアメリカの、とある日系企業で働いています。社員の多くはアメリカ人であり、私が配属されている小さな部署でも、日本人は私だけです。
日本とやり取りする頻度は高く、現地スタッフと日本との間のコミュニケーションを取り持つ必要も多く生じます。

それゆえ、現地スタッフが持ちえない色々な情報を持つことになり、周囲からますます頼りにされるようになります。皆は私を”これまで一緒に働いたことのあるどの日本人より優秀だ”と持て囃します。それが嬉しく誇らしい反面、こんなものは優秀とかそういう話ではなく、単にそういうシステムの中で働いた結果そうなっただけ、という気持ちも抱いています。

そんな立ち位置の私なので、ある同僚がよく助けを求めてきます。

”こういう問題が現場で発生しているが、何か知っているか”
”こんな質問が出先から届いているのだが、情報を持っていないか”
”出先(アメリカ人)の言っていることが分からないので、助けてほしい”

いや、3つ目のは「なんで?」って感じなんですが。

ひとたび私にボールが渡されたら、それはもう私の担当案件です。彼では手に負えないからこそ私に助けを求めているわけで。だから私はその都度調査し、回答を導き、彼にそれを教え、一件落着し、そして思ってしまうのです。

”これはもともとお前の仕事なんだぞ”
”分からなかったら俺に投げて、お前がやるのは楽な案件だけ。お気楽だな”
”使えない奴め”

いや待て俺。彼はもう老人と言っても良い年齢であり、最新の製品や技術については私の方が圧倒的に多くの知識を持っているのだから、私に訊くのは自然なことだ。そのために私はここにいるのだし。それに彼には彼の豊富な経験と知識があり、”使えない奴”などでは断じてない。きちんとやるべきことをやっている。そもそも使うとか使えないとか、俺は何様なのか。ワンピースではルフィが、ナミを道具扱いしてシャハハハと笑うアーロンに、「つかう?」って言ってキレてましたよね。あれは正しい怒りだと思います。

分かっているんですよ。

私の中で煮えたぎるこの感情は不当なものだと、きちんと理解しています。彼も私も、まっとうに仕事をしているだけ。そう思ってもなお、私の中の獣がいやいやいやいやと首を振り、檻をガンガン打ち鳴らし叫ぶのです。

”日本との交信の仲介は仕方ないとして、彼と現地スタッフとのやり取りまで、何故俺が仲介しなきゃいけないんだよ!アメリカ人同士だろ!”

いや、うん、まあ、それはそうですね。これは獣の言い分ももっともであり、檻に向かって肉でも投げてあげたいところです。なんで俺がアメリカ人とアメリカ人の間で通訳やらなきゃいけないの?

獣はなおも、牙を剥き出しにして叫びます。

”朝は俺より遅く出勤し、夕方5時に帰っていく!分からないことは俺に投げておけば万事スピーディに解決するんだから楽な仕事だよなァ!”
”I like to help peopleなどと言うが、お前、俺に助けてもらってばっかりじゃねえか!”

まあ待て獣よ、と私は檻の前で手を掲げて制止します。
朝は、単に私が同僚より早く出勤しているだけで、彼はちゃんと8時に出社しているし、アメリカ人が夕方5時に帰るのは普通です。日本人残業しすぎ。それに彼は実際、他の部署の人たちをその知識と経験を駆使してよく助けています。その彼が助けを求められる場所に立っていたのが、たまたま私だっただけのこと。

そう、実情はいたってシンプルなのです。各々が、各々の立ち位置でベストを尽くしているだけ。いわば彼を助けることは、私の業務の一環でもあるわけです。というか私とて彼だけではなく、きちんと皆を助けています。そうでなければ上司から重宝されることもありません。なのに彼への苛立ちだけが消えず、消えないからこそ呪いと呼ばざるを得ない。では私は彼を呪っているのか。いや、そうは思いたくありません。私が他人を呪っているなんてそんな。思いたくありませんが、実際そうなのでしょう。しかし、このイライラは確実に私の心をも蝕んでいて、災いは、むしろ私にこそ注がれている。なるほど、”人を呪わば穴二つ”ってこういうことか。昔の人というのは、なかなか上手いことを言うものです。
心の中で醸成された呪いは体外へと染み出し、彼に対して何か冷たい態度を取ってしまったりもする。もはや呪いの二次災害です。

ゆえに私は、ここにこうして綴ることでこの呪いの成分を解析し、何とか解毒なり免疫獲得なりできないものかと思案しているのです。

苛立ちの正体

結論から言えば、”ずるい”という感情。これこそ、私の呪いの正体だと考えています。

誰かを”ずるい”と思ってしまうこと。皆さんは厄介だと思いませんか。
ずるいとは、広辞苑によれば”しなければならないことを巧みになまけたり自分の利益を得たりするために、うまく立ち回る性質である。狡猾である。わるがしこい”だそうです。

恐らく私は、彼を”ずるい”と思っているのです。しかし彼は決して怠けているわけではないし、自分が楽をするために私を利用しているわけでもありません。なのに何故か私は、彼に対して”ずるい”と思ってしまう。私の利益が、不当に奪われているような気がしてしまうのです。

ここで、実際には何も奪われてなどいない!錯覚だ!と否定してしまっては根本的な解決にはならず、私は考える必要があります。心の中にこうした思いが存在する以上、錯覚として片付けようにも内なる獣が納得しないからです。では私にとって、不当に奪われているものとはいったい何なのか。

”彼のために働いた時間でしょうか”?と訊いても”分からない”。
”彼のために働いた分の給与でしょうか?”と訊いても”分からない”。
人間の私は、困ってしまってわんわんわわん。わんわんわわん。と泣くのも憚られます。

”分からない”ってどういうこと?いっそ泣いてやろうかと考えていると、ふと思いつきました。ひょっとして、”彼は弱いのだから助けてあげなくてはならない / 親切にするのが当然”という、私が勝手に抱いていた義務感こそが不当で不要なのでは?

彼は還暦を越えており、かつ身体の自由が効きづらくなるある病を患っていて、その症状を投薬で抑えながら仕事をしています。だからと言って不機嫌になることもなく、周囲にも私にも親切です。端的に言って、善人。

”そんな彼が私に助けを求めてくるのだから、私には文句の一つも言う権利はなく助けなければならない”
”彼をケアし、守らなければならない”。
”私も善人でいなければならない”。
”それが私の仕事なのだから”。

思えば私は、上記のようなことを常に考えていました。彼が善人であるからこそ。
その一方で私の中に住まう獣は、私自身が勝手に強いた正義感や親切心、もっと露骨な言い方をすれば彼への同情に、ひたすら反発してきたのかもしれません。だから、”彼に対して悪い態度を取ってはならない”、”親切にしなければならない”と思えば思うほど、獣は一層反発して叫ぶのです。

”お前の心は綺麗事ばかりだ!何故俺に、もっと自由に叫ばせてくれないんだ!”と。

なるほど。

どうやらこれが答えのようです。こんな単純な回答を得るまでに、ずいぶんな遠回りをしてしまいました。要するに私は、”暗く汚い感情を抱く権利”を、私自身から不当に奪おうとしていたのです。

内なる獣を尊重する

私の抱く”ずるい”という感情はすなわち、”俺の気持ちなんか大事にしてもらえない”という、獣の不公平感に他なりません。しかし冒頭で述べた通り、”俺の気持ちを大事にしない”主犯は私自身なのです。私の中に住んでいる獣の面倒など、他の誰にも見られないのですから。

この点を見落としたままひたすら「ずるい」と連呼しても、呪いは増幅するばかりです。対象を見誤った呪いというのは、宛先不明の郵便物や獲物を仕留め損ねたブーメラン同様、結局全て自分の元へと戻ってくるからです。それは眼鏡を額に載せていることを忘れ「眼鏡がないから世界が見えない!お前たちによって私の視界は奪われ続けているのだ!」と世界に向けて怨嗟の絶叫を張り上げる行為とも言えるでしょう。呪ったら呪っただけ戻ってくる災いに苛立ち、さらなる呪いを生み出してしまう。地獄の悪循環です。

例えば私は、仕事以外の日常生活においても、自罰的感情に苛まれることがよくあります。

”また人に優しくできなかった。私は最低の人間だ”。
”今日も人に迷惑をかけてしまった。なんて情けないんだ”。
”冷たいことばかり考えて、私はなんて心の狭い人間なのだろう”。

これらは全て、内なる獣を罰し、委縮させ、投獄しようとする言葉です。しかしそれは本当に必要な措置でしょうか?心の中というのは我々に許された唯一の自由な空間です。なのにその最後の砦でまで、何故自分を縛らなければならないのでしょうか。

先ほど私は”彼を呪っているとは思いたくない”と書きました。でもそんな風に抵抗する必要などなかったのです。OK、私は彼を呪っている。OKOK。しかし私は、彼を呪ってしまう自分自身をも呪っていました。それはNG。そんなことまでする必要はありません。呪うなら、他者だけで十分でしょう。

とはいえ人間は社会的な生物です。そうである以上、我々は他者を尊重し、大切にしなければなりません。これは人間として生きる上での前提と言っても過言ではないでしょう。他者を大事にするよう振る舞えない者は、他者から大事にしてもらいづらい。それが我々の生きる世界の性質です。獣の振る舞いは社会的に利益を生まず、自他共に損失を生むからこそ避けなければならないのです。

しかしそれはあくまで、心の外側でのお話。心の内側にある獣の檻など、誰も見てはいません。そこへわざわざ倫理やら道徳やらを持ち込む意味などありませんよね。檻など要らない。放し飼い可。猛犬注意の看板も不要です。

”他者を呪うための爪と牙を持っていてかっこいいね”
”怒りと憎悪で燃え盛る瞳が、闇夜を照らして便利だね”

そう言って、内なる獣に肉とかビーフジャーキーとか骨の形のガムとかを与えて、巨大な犬小屋を建ててあげれば良いのです。

あなたの眼鏡は、誰からも奪われてなどいません。自分自身に眼鏡を返却し、そして正しく世界を呪おうではありませんか。

他者を許せない自分を許し、獣と共に世界を呪え

書き始めた時はこんな見出しを付けようなどと思っていなかったんですけどね。もうちょっと上品なところに落ち着かせようと思っていました。お行儀の良いエッセイを書きたかったのです。

しかしねえ、どう考えたって、面白くないものは面白くない。

同僚は今日もチョロい仕事をしているようにしか思えないし、私の仕事は減らない。不平も不満も相変わらず存在します。皆川亮二の名作「ARMS」では、主人公が自らに巣食うジャバウォックを受け入れたことで、ジャバウォックが彼に跪いてみせるシーンがありました(私の一番好きなシーンです)。しかし現実の心はそう上手くいきません。内なる獣を許したところで、いきなり従順になってくれるわけがないのです。

ゆえに、心の中でまで善人でいようとすることこそが間違っているのでしょう。獣は紛れもなく自分の本質の一部なのに、それを認めず自己否定を繰り返したところで、誰一人として喜ぶ者などいません。そうではなく、自分の中の怒りや憎しみを、そういうもんだよねと肯定すれば、少なくとも獣を喜ばせることはできます。

獣が”ずるい”と叫ぶなら”そうだそうだ”と声を上げ、それでも身体の手綱を握り、他者に優しく振る舞おうではありませんか。そうして生み出した社会的な利益が、いつかは自分の財産として戻ってくるのだと信じて。

ただし、その振る舞いに自己犠牲を要するのなら話は別です。いつか来る利益のため、と内なる獣を生贄に捧げなければならないのなら、それは重大な損失で明らかなやり過ぎです。獣とはいえ自分の一部なのだから、それを失う危機に直面しているのなら戦うしかない。戦ってよいのです。だって私の獣を守れるのは私だけ、あなたの獣を守れるのはあなただけなのだから。

ところで最近読んでいるキリスト教関係の本には、神は表面的な振る舞いではなく内心を見る、と書かれています。いかなる親切であれ、その動機が不純であれば神は見抜くというのです。そして著者は、不純な動機に基づいた善行を、滅茶苦茶に、コテンパンに非難します。そして心からの善意と信心で神に仕え、悔い改めることを推奨します。

そうか?と私は思います。その思想は立派だけど、あまりにも潔癖過ぎやしないか?

神こそが我々に自由意志を与えたというのがキリスト教の思想です。ならば神がくれた自由に基づき、獣が住まう呪いの塔を心の中に建造して何が悪いのでしょうか?動機が何であろうと、獣の陰謀だろうと、親切な振る舞い自体が咎められて良いわけがありません。神様はそんなことしないでしょう。悪いのは、ボロを出して悪意や不純な動機を社会に露呈することです。バレたが最後、裏切りになってしまうから。しかし悪意を隠し通し、最後まで親切を貫き通すのなら、それはむしろすごく立派なことじゃないでしょうか?たとえ相手が神であろうと、非難などされてたまるものかよ。

偽善者で何が悪い

さて、私が仕事をするのは、それが自分の得になるからです。やるべきことをやって利益を生み、会社からお金を貰う。そういう契約です。ならば仕事の一環として、同僚を助けないという選択肢はありません。この時、以下4つの方法があります。

①”あなたは素晴らしい”と思いながら、ニコニコしている
②”ぬるい仕事しやがってこの野郎”と思いながら、ニコニコしている
③”あなたは素晴らしい”と思いながら、しかめっ面でいる
④”ぬるい仕事しやがってこの野郎”と思いながら、しかめっ面でいる

①が出来るなら最高なのですが、私は獣を飼っちゃってるので無理です。ペット禁止の住宅には住めませんので、採用するなら②です。にこやかな方が評判を保てますからね。
ただ、①が無理だからといって③も無理とは限りません。何とか心の中を美しく保つのです。ただしこの方法では大抵、閉じ込められた獣が脱獄を図り身体(主に顔)へと逃げ込むので、しかめ面になってしまいます。わざわざそんな方法を取るくらいなら、④を採用した方がよほどマシでしょう。他人から見れば③も④も同じことですが、③は獣を否定し虐げている分、害悪でしかありません。ただし、単にニコニコするのが恥ずかしいから仏頂面をしている③の人は、とても渋くて良いと思います。

ここで重要なのは、仮に④を選んでしまっても、決して獣を叱ったり罰したりしないこと。心の中の獣を責め立てて一生懸命退治・教育・封印したところで、誰も褒めてなどくれないからです。相手がいかに心優しい善人だろうと、こちらが善人の心を持てないのは仕方がない。だってうちでは獣を飼っているんだもの。だから心の中でだけは獣を開放し、獣が望むなら相手が誰であろうが存分に呪い、貶し、罵倒しようではありませんか。そして心の外側ではニコニコと穏やかに振る舞えるよう、表情筋や声帯、身振りなどを制御するのです。

そして時々、本当に信じられる誰かにだけ、”実はうちの獣が暴れててさー”と愚痴を言う。誰かの心のフィールドを借りた、怒りと憎しみのドッグラン。いいじゃんたまには。そうしていずれ私の心も、誰かの獣を思い切り走らせるための憎悪のフィールドになれればいいと思っています。

そうして内なる獣と共に、気に入らない者へ片っ端から呪詛の炎を吐きながら、それでも外面だけは可能な限り、”良い人”として保てれば見事なものじゃないですか。内心がどれだけ怒りと恨みに支配されていようとも、誰かへの親切な行いはこの社会への投資となって、いつか私やあなたや我々の愛する者たちに、何らかの利益をもたらすはずですから。

”情けは人のためならず”という諺も現在まで残っているわけだし、偽善だろうが何だろうが、良い行いにこそ世界を押し上げる力があると私は信じています。燃え盛る恨みと怨念で世界を照らし、そこに住む人たちに優しくできれば良い。すべては、やがて来る我々自身の利益のために。

日々の呪いを決して外には漏らさず、大切に、有効活用していこうではありませんか。

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