【洋書レビュー】The Prodigal God 宗教書の限界を垣間見る(前編)
こんにちは。師之井景介です。今回の洋書レビューは”The Prodigal God” / 著 Timothy Keller 。”「放蕩」する神”として邦訳もされている、キリスト教関係の本です。
概要
新約聖書”ルカの福音書”15章では、罪人や徴税人(権威から見下されている人たち)に教えを説くイエスを、パリサイ派や律法学者(ユダヤ教の権威)が批判するシーンが描かれます。これに対しイエスは”「放蕩息子」のたとえ”を用いて説明しました。
詳細は後ほど引用しますが、この放蕩息子の寓話はかなりもやもやするお話で、何度読んでも「いやおかしいだろ」と思ってしまう内容です。
本書は、この寓話をどのように解釈するかがテーマとなっています。
先に少しだけ感想を言うと、本書が提示するのは確かに斬新な解釈で、人生観に取り入れたいと思える点もあります。しかしキリスト教ありきで語っている時点で、あくまでキリスト教徒の信仰心を強化する内容に留まり、宗教としての限界を突破できていないのが残念でした。(宗教書なので、突破などしたらむしろダメだとは思いますが)
文法・単語レベルと対象読者
本書は本文が133ページと比較的少なく、1ページあたりの文字数も多くはありません。文法自体もそこまで難しくありません。
ゆえに、早く読めるかなと思っていたのですが、意外と時間がかかりました。合計12時間くらいかかったと思います。
登場する単語がなかなか難しく、1ページあたり辞書を引く頻度は3、4回程度でした。(これは私が、一度調べた単語をすぐ忘れるというのも原因です)。また固有名詞やキリスト教用語も登場するため、初級者・中級者にはオススメしづらい本ではあります。
筆者は本書の対象読者を”キリスト教に興味がある人、もしくは既に信じている人”と語っています。確かにキリスト教に対してポジティブな態度の人に向けて書かれた本でした。
放蕩息子のたとえ
本書のテーマとなるの寓話には父、兄、弟の三者が登場します。
要約すると、以下のようになります。
・ある人(父)に二人の息子(兄弟)がいた。
・弟が、父の死後に分与されるはずの財産を今欲しいと頼んだ。
・父はその頼みを聞き、弟に財産を与えた。
・遠い街で弟はすぐに財産を使い果たし、そこへ飢饉が追い打ちをかける。
・困窮した弟は行いを悔い、父の元で使用人として働くことを思い立つ。
・帰ってきた弟を見るなり父は歓喜し、弟の帰還を祝う宴会を開く。
・畑仕事をしていた兄は、それを知ってマジ切れする。
・宴会への参加を拒む兄の元へ、父が出てきてなだめる。
・兄「私のためには、子山羊さえ振る舞ってくれなかったのに!」
・父「お前はいつも私と一緒にいるし、私のものは全てお前のものだ。いなくなった子が帰ってきたんだから、普通喜ぶでしょ」
ちょっと長いですが、本文も引用しておきます。
もやもやしませんかね、これ
このたとえ話を初めて読んだ時、私は理不尽しか感じませんでした。
本書を読み終えこれを書いている今も、未だに理不尽だと思っています。そのポイントは以下の通り。
①弟は、父から分与された財産を受け取った挙句、遊びほうけて使い果たしている。にもかかわらず、生活ができなくなったから帰還したというだけで祝宴を開いて貰っている点。
②これに対し、兄が父に告げる「真面目に働いてきた私には、一度もこのような宴会は開いてくれなかった」という不満。
③兄の不満に対する父の「お前はいつも私と一緒にいた」「私のものは全てお前のもの」という釈明。
各項目について見ていきます。
①弟は既に自らの財産を使い果たしているのに、さらに祝宴を開いてもらっている。この祝宴のために振る舞われた子牛というのは、弟への更なる分け前に当たるのではないか。つまり弟は、自らの財産を使い果たして困窮したという無計画さ、放蕩ぶりゆえに、父から追加の財産を受け取っているように見える。この対応には、直感的に不公平感を覚える。
②弟のような常識外れのお願いもせず、兄は父の元で真面目に働いてきた。その兄が、弟の帰還に至ってこのような不満を爆発させたという点に、父のこれまでの彼への対応を垣間見てしまう。父はここに至るまで、兄に対して十分な愛と敬意を与えてきたのだろうか。
③「いつも私と一緒にいた」ことが、果たして兄の怒りを鎮める事実たり得るか。父と一緒にいて、せっせと働いてきたことで却って子山羊の一頭も貰えないのなら、兄も弟同様出奔し、散財しまくって帰ってきたほうが得だったのではないか。加えて、弟の祝宴が始まった時、兄はそれを知らぬまま畑仕事をしていた。この事実により「私のものは全てお前のもの」という釈明は空虚さを帯びる。何故なら、父の言葉が真ならば、祝宴の費用は兄のものでもあったことを意味するからだ。しかし父は兄に何も告げずに祝宴を始めている。これは「私のものは全てお前のもの」とは口先だけの慰めでしかないことを示唆する。せめて父は、弟が帰還した喜びを、祝宴を始める前に誰よりも先にまず兄と分かち合うべきではなかったのか。
このように、納得行かないことで埋め尽くされてるじゃねえかと思いながら読み進める読者に対し、筆者は言います。
この寓話の趣旨は、当時の権威であったパリサイ派と律法学者へ向けた批判である、と。
そして、権威者や自らの利益のために信仰する者たちの姿を投影された”兄の属性”は、本書の中でボコボコに糾弾されてゆくことになります。
→後編
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