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【洋書レビュー】The Prodigal God 宗教書の限界を垣間見る(後編)

前編

新しい解釈

父を神に見立てたこの寓話は従来、”信仰を忘れ、どれだけ放蕩した生活を送った者でも、悔い改めて信仰を取り戻せば、神は温かく迎え入れてくれる”という教訓として解釈されることが多かったようです。この寓話が「放蕩息子」と題されたように、帰還した弟に焦点を当て、兄の非難をものともせずに神は愛してくださるということですね。

いや、でも待ってくれ、兄が抱える不公平感が置き去りにされてないか?と思う皆さんに、筆者は言います。

何故、不公平だと感じるのか。父とずっと一緒にいられたことに飽き足らず、父が子牛を屠ったことに嫉妬するなら、お前が欲しがっていたのは父の愛ではなく、父が屠った子牛だったのではないか?
相手のためにした親切や努力が報われないと嘆く時、お前が真に期待していたのは相手の幸福ではなく、相手からの見返りではないのか?

これに私は、うぐぐ、と唸りました。この指摘には一瞬ハッとさせられるし、ちょっと図星を突かれた気持ちにさえなります。

相手に見返りを求めることは、相手をコントロールしようとすること。清く正しく過ごしているのに願いが叶わない、と不条理を嘆く行為は、神をコントロールしようとすることだというのです。
この思想は一転、過度な自己責任論にも繋がります。神は私の願いを聞き届けてくれない。つまり私の行いに悪い部分があったのだ。私が不遇なのは他ならぬ私のせいだ、と。
こうした思想が結局、社会的弱者が生まれる責任をシステムではなく弱者自身へと押し付ける言説へと繋がってゆくのだと思います。
・鬱は甘え
・生活保護は甘え
・貧困は自己責任
どこかで聞き覚えのある主張じゃないでしょうか。

うーむ。認めましょう。一理ある。

善人でありたいと願い行動するなら、他者や運命に見返りを求めること自体が間違っている。見返りを求めて行動するのであれば、それは真の善行とは言えない。まあ、そうかもしれませんね。
別に、自分の行いが真の善行である必要などないと私は思いますが。しない善よりする偽善、という言葉が、時に正しいことだってあるでしょう。

引き続き筆者は、”兄属性”の最たるものとして「自分は敬虔に神を信仰しているのだから、私は天国へ行けるはずだ」という思い上がりを挙げます。この思い上がりは、信仰の薄い者や宗教生活を送らない者、教義に反する者を見下し非難する視線へと容易に転化するそうで、熱心で敬虔なキリスト教徒にもその傾向が多分に見られることを筆者は嘆きます。
しかし神というのは表面的な行為より、むしろ心を見るようです。ゆえに上辺だけの善行は本質的に不道徳であり、利己的な動機で行う利他的な行為を、神は顧みない、と筆者は言います。

いやちょっと待て。マジで言ってる?

どのような意図が介在していようが、一つの行いが誰かを救ったり喜ばせたりしたのなら、それは善行として評価されるべきではないのか? 極端な例を挙げるなら、常に神を呪い、隣人を皆殺しにする願望を抱いている人がいたとして、その邪悪な心を隠し通して死ぬまで慈善事業や親切な人柄を貫いたとしたら、その人を、神は受け入れてはくれないのか?

だとしたら、神に顧みてもらうというのはずいぶん難易度が高い話に思えます。何故なら、相手の幸せを願ったいかなる行いも、相手が幸せになった姿を見て、自分が嬉しいからに他ならないからです。結局利己的にやってますよね、自分が喜びたいのだから。ならば真に利他的な行為など、普通の人間に可能なのでしょうか?

ところで私はさきほど、”(善行であれば神から)評価されるべき”、”(表向きは完全な善人でも)神は受け入れてはくれないのか”と書きました。この文章で、私は神をコントロールしようとしたのでしょうか。もちろん違います。私はただ、期待しただけです。人間の善性に対する神の判断を期待しただけ

実のところ、寓話における兄への筆者の口ぶり(”父の愛ではなく子牛が欲しかったのだろう”)に、私は怒りすら覚えています。よくもそんなことが言えたものだな。何か形あるもので愛を示して欲しがることの、自分のことだって祝福してほしいとの願うことの、どうか認めてほしいと思うことの、何がそんなに悪いというのか。曲がりなりにも一生懸命働いてきた者が、何故そこまで悪しざまに言われなければならないのか。

と熱くなってはみたものの、これはあくまでたとえ話。権威があろうとなかろうと、期待したって我慢したって願ったものは得られないし、逆に何もかも捨て去った後で、全く期待していなかったものが得られることもある。神も他人も、コントロールなんてできない、という教訓こそが真意なのかもしれません。

なるほど、ひょっとして、イエスがこの寓話で示したのはそういうことではないか。

神にも他人にも期待するな”。
期待などするから、裏切られた時に怒りが湧くのだ”。

もともと世界は不条理だから

自分のあらゆる行為に対し、結果を期待するべきではない。

こうなってくると、むしろあらゆる煩悩を捨てるという仏教思想に近づいてゆく気がします。(もしかすると釈迦とイエスが辿り着いた境地は、究極的には同じものなのかもしれません)

ただ自らが善だと信じることをし、どのような結果になろうとそれを受け入れるべし、と。

何故なら、世の中というのはこの寓話における父のように理不尽で、頑張ったって必ずしも報われないのだから。

ああ、そういえば、”アーメン”というのが確かまさしくそういう意味でしたね。”かくあらせたまえ”。あるものがあるものの通りでありますように。神が作ったこの世界を、そういうものとして受け入れるという祈りの言葉。

宗教書の限界

さすがに、”神に期待するな”などという話は、本書には記載されていません(書けるわけがない)。よってこの辺りのことは、完全に私の感想です。

さて。話を戻します。

寓話の兄が顧みられず、豪遊して無一文になって悔やんだ弟が歓迎されるなら、”何をしたかはどうせ関係ないんだし、神を信じさえすれば許してもらえるんだから、好き放題やっちゃえばいいじゃーん!いえーい!”という輩が現れます。
こうした発想に対し、それは正しくない、と筆者は言います。確かにイエスの愛は無償だが、同時に対価を示しえないものでもある。神は私たちを救うために、無限のコストを支払っているのだから、と。

ん?????

無限のコストとは、イエスが磔にされ、その命と引き換えに人類の原罪を背負ったことを指しているのでしょう。しかしそのことが何故、”弟属性”として生きようという主張を否定するのでしょうか。この辺りの飛躍が、私には理解できませんでした。
イエスの自己犠牲を以て倫理を説く。気持ちは分からないではありませんが、今一つ無理のある論理展開な気がしてなりません。

それよりも、聖書のある一節を引用すればもっと簡単に筋を通せるのに、何故そうしないのでしょう。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ヨハネ 3:16

つまり神の愛は全人類に平等に注がれているのです。それを信じるか信じないかは各人に委ねられているのだとしても、キリスト教徒なら今こそ、この理屈を使うときでしょう。

人間として社会を営む以上、自分勝手な振る舞いは、大抵の場合誰かに皺寄せが行きます。弟が放蕩生活を送った結果、兄の財産や自尊心が減ったように。これを理解していれば、おいそれと自己中心的な行動は取れないはずです。何故なら周りにいる人たちだって皆、神に平等に愛されているのですから。誰もが神に愛されているのだから、ないがしろにしてよいわけがない。シンプルで美しい理屈です。

では何故、筆者はこの理屈を使わなかったのか。

ここが宗教書の限界なのかもしれません。神の万人への愛を根拠として倫理を説くとなると、必然的に信者以外の人間をも含めざるを得ません。しかし信者以外を含めてしまうと、イエスを信じる者が救われるという教義との間に葛藤が生じます。

寓話において、帰還した弟が悔恨の言葉を口にするより先に、父は彼に駆け寄り抱擁しました。この時、父は弟の改心を見抜いたから抱擁したのでしょうか? それよりも、その内心の如何を問わず愛を示したという解釈の方が、より自然で寛容だと私は思います。

しかしそれは、神は自らを信じない者すら愛すということを示しかねません。キリスト教コミュニティの必要性を揺るがす爆弾発言となりかねないのです。

ゆえに筆者は、その理屈を使うことができなかったのでしょう。宗教の内側にいる以上、その外側に目を向けることができない。目を向けてしまえば、信じる者/信じない者という分断に言及せざるを得ず、たちまち自らも”兄属性”へと引きずり込まれかねないからです。

考えることの多い、なかなか興味深い本ではありました。

イエスの教えで倫理を説くと、教義そのものを破壊しかねない論理が生まれる。そもそもの教えに矛盾を孕むかのようで、キリスト教とは面白い宗教だと思います。


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