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文法以前(4)『イトイ式コトバ論序説』をなぞりつつ

 次回は「お茶を濁した問いかけ」のコピーライター篇を。と、書いた気がするけど、具体的に書き出すとやっぱり「これ、一般論ですから」てなことでは済みそうにないことがわかり断念。違うものを書いてお茶を濁すことにする。何、お茶は濁ってる方がおいしいんです。

 当たり前の話ですが、コミュニケーションたらは、何も言葉だけを使って行われる訳ではなく。むしろ、言葉によらない部分の方がずっとずっと圧倒的に大きいのであり。
 ソシュール(らの著作)やなんかを読んだりしながら、言葉とは何ぞやといった整理を試みた結果、かえって整理しきれない領域の広大さに圧倒され(職業的に)絶望するなど、実は、(誤解される場合が多いのですが)自分の性格はかなりネガティブです。
 で、語り得ない領域について潔く沈黙できる職業の人を羨ましく思いつつ、それでも言葉は、言葉にできない領域との密接な関わりから生まれたものなのだ。という根拠のない確信だけは不思議と揺るがないのがまた困る訳ですが。
 さて、でも、しかし、そのようなマージナルでナンギな領域を扱った本、糸井重里(敬称略)『イトイ式コトバ論序説』_絶版で文庫化もされてないようですが、古書サイトを探せば簡単に手に入るみたいです_からの抜粋に、私の、若干の「個人的」思いか考えか知らんコメントを書き添えてみます。
 著者_で良いのだろうか。糸井さんが直接書かれたのではなく、講義録を誰かが書き起こしまとめたもののようなので_自ら仰っているように、寿司職人が最近の米はどうだね、みたいな話をしているような本なので、アカデミシャンの講義録を読み終えたときに残る何かをはぐらかされたような、残尿感にも似た気持ち悪さはありません。
※以下、《言葉》という漢字表記をやめて《コトバ》でいきます。

☆「コトバにならないコトバの素もコトバだ」とする態度

 コトバの素の集まりというのは、本当はコトバと呼ばれていないわけですけれども、僕はあえてこれをコトバと呼びたい。
(糸井重里『イトイ式コトバ論序説』p21)

 コトバについて、ソシュールのシニフィアン_指すもの_/シニフィエ_指されるもの_などをベースに考えはじめると、「シニフィアン_指すもの_/シニフィエ_指されるもの_の対応は恣意的なものです」あたりで、コトバが生まれてくる現場から弾かれてしまう。あるいは、そんな気がしてしまう。
 ソシュールは、まず音声を想定していたようですが「記号としてのシニフィアン」が指す対象は、コトバの場合もあればコトバでない/にならないものの場合もある。
 この「シニフィアンによって《指されるもの》」を、著者は『コトバの素』と呼び_ソシュールが言ってることをあっさりひっくり返してしまってる!_、更には、その『集まり』についても『僕はあえてこれをコトバと呼びたい』と言う。(※以下、28日追記→)つまり、コトバによって指される当のモノやコトもコトバとして扱いたいということ。当然、ソシュールの言う「ラング」としてのコトバの世界の埒外の話だ。コトバを扱う職人としての、ラングに対する「パロールの優位性」宣言と理解できる。
 ということで、コトバが関われない領域はなくなりました。は言い過ぎにしても、ある種のタブーが解禁されていることは確か。だと思う。

☆「右手を壁に当てていれば迷路は抜けられる」が指すもの

 迷路というのは、ずーっと右側の手を右の壁に当てていれば、最終的に出られるようにできているんだけど、それと同じように、右側の壁に手を置いてるって程度のコトバさえ知ってれば、迷路はくぐり抜けられる。コトバをとっても少なくしか知らなくても、生活はできるわけです。
(同書p.82)

 割と頻繁に言っていることですが、コトバの機能は何も「伝える」ことに限らず、「隠す」「誤魔化す」「騙す」などいろいろあり、コトバがあちこちで不具合を撒き散らしていることは間違いない。しかし、「伝える」ことに特化すれば、コトバは必ずしもそんなにタチの悪いものではない。と楽観している(かなり飛躍があるけど、そこは勘弁)。

☆「何をリアルと感じるか」/「そうなるとイヤ」問題

 何をほんとと感じるか、何をリアリティをもって感じるかというのがわからないわけです。(中略)コトバと人間の関係というのをどれだけ一致させるかっていうのを急ぐあまりに、みんながキモチとコトバを一致させようと思いすぎてると、またこれは大変なことになっちゃうんですね。税務署の人なんかが督促状で「あなたの家は何日までに払わないと差押さえになります」なんていうミもフタもない文章を伝えるのに、(声をひそめて)「あなたの家はね」って言われたらヤでしょ、名文で書かれたりしたら。そうなるとイヤなんで、適当に抜いてほしいなというところでもあるんです。
(同書p.58)

 リアリティて、日本語で言うなら「らしさ」「生々しさ」ぐらいの感じか。それを高めようとしたり、わざと事務的に済まそうとしたり。このあたりの判断、実は重要です。

☆喘息とプルースト。良くも悪くも生理の次元で

 僕はかつて喘息だったことがあるんですけども、喘息で意識的に呼吸をしないとうまく呼吸ができないという時期には、喘息の作家の書くものがよくわかった。(中略)『失われた時を求めて』のプルースト、彼も喘息だったんだけど、喘息のときに喘息の人が書いたものを読むと非常によくわかる。コトバというものがうまくやりとりできたケースっていうのは、そんなふうに生理と関わっているときが多いわけです。
(同書p.64)

 このあたり、まさに「良くも悪くも」なんですが。「書き言葉」ばっかり扱っていると、ともすると見失ってしまいがちな部分でもあり。コトバが、フィジカルの影響から完全に自由になることは、おそらくないんだと思っています。

☆そして、自分のキモチいいと他人のキモチいいは違う

 本当はこういう説明はよくないのかもしれない。「自分自身とコトバの関係を優先させる方法」。つまり自分とコトバとの関係が調和的で密接でキモチよければ説明も論証もいらない、というのが詩の方法だと思うんです。
(同書p.93)

 そろそろ黙ります。最早どんなコメントを付けても野暮でしかないので。


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