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境界領域にて

【2022.6.26追記】虹が二色に見えてしまうような、グラデーション感度の極端に低い人が苦手だ。
善か悪か/コップかグラスか/本業はどっちだ……キリがないので止めるが、ものごとをスパッとシンプルに割り切りたいという欲求については、わかる気がする。私だって、無駄にごねたり、話をわざわざややこしくするのは好きじゃない。私の趣味はともかく、かのソシュール先生だって、デジタルつーか二項対立で整理していくのが得意だったし、そういった仕事で評価された人だ。と言っても、そんなに大きくは間違ってないだろう。たぶん。
けどね、認知言語学におけるプロトタイプ論あるいはウィトゲンシュタインの「ボケた縁」などを持ち出すまでもなく、私は「グラデーションを視る者」であり続けたいと思っている。このあたり、若干のこっ恥ずかしさもあって、つい「俺はマージナルでいく」とか言ってしまうんですけどね。

 土曜の夜の振り返りに関連しつつのニホン語まわり雑記になりそうなので、今日のは「サタデーナイトフィーバー」「ラボにて。」両方のマガジンに入れようと思う。こんなふうに私は、気がつけばマージナルなことをやっていたり、マージナルな状況に置かれていたりすることが多い。たぶん、良くも悪くも存在自体がマージナルなんやと思います。

 確定申告も近いことだし、今日は一つ明朗会計で、なるべく白黒はっきりするような話法を心掛けつつマージナルなグレーゾーンの話を。

 夢を見ていたのか、目醒めてから横になった姿勢のまま回想というかある種の「振り返り」を行なっていたのかわからないような意識の状態を経験した。自分で「あ、これ夢や」とわかっている、いわゆる「明晰夢」のようでもあり、微妙に違うようでもあり。

 通常私は、明晰夢を見ていることを自覚した場合、夢の中で即座に何らかの行動を起こし、その結果を手書きで記録する。夢の中でも「即ち興す」こと。これを「スピリチュアル・インプロヴィゼーション」と呼んでいたりする_(0)参照_訳ですが余談ぽいのでそれは置いとくとして。今回は、何も行動を起こさず。ただ、起こることまたはたぶん意識たらが生み出すのであろうヴィジョンの展開を冷静に眺めていた。そんな経緯で、夢日記_(1)参照_や魔法日記_(2)参照_を日本語で記す場合の話法または文体について、改めて考え試行錯誤している。

 人が見た夢について、それを見た本人が言葉で記す……単純に定義するなら、夢日記とはそういうものだろう。内容は、思いっきり主観的。それを、ある程度の客観性を担保しつつ、ある程度の人数で共有できるモノとして、物質の将来を思いながら記す日本語文は、どうあるべきか。なんて言うといきなりしんどなってまうけど、どんな書き方があり得るのだろうか。現時点では、答えは出せない。継続して考え、試行錯誤を続け、何らかの方法を獲得したいと思う。

 さて、確定申告です。税法上の「個人事業主」は、

「フリーランスのナントカの何某と申します」

みたいな名乗り方をする場合が多い。だが、フリーランスの個人事業主と言えども、多くの場合「給与所得」があったりする。バイトしないと食えないからといった事情以外にも、紛れもない本業なんやけど、税法上「事業所得」ではなく「給与所得」を得ているとか。

 少し具体的に言うと、コピーライターとして独立開業した人が、ある程度数字の読める(定期受注が見込めそうという意味ね)新規の仕事を獲得しようとして行動し、無事契約に至った場合、

「じゃ、今日から在宅勤務の契約社員ということで、よろしくお願いします」

みたいなことになったりすることがある。単発案件の受注ではなく「雇用契約」を結ぶと、月々のギャラは「報酬」ではなく「給与」として振り込まれることになる。

 日本語教師の場合も同様。契約形態によって、まあケース・バイ・ケースな訳ですが、例えば非常勤でお世話になっている日本語学校、大学の日本語別科などの場合、給与明細をチェックすれば一目瞭然ですが、「報酬」ではなく「給与」としてギャラが支給されているケースが多いんじゃないかな。

 さて、複数の法人と「雇用契約」を結び、なおかつそれ以外に金額的にはショボいながら「事業所得」を得ているお前は何者だ?

 残念ながら、フリーランスはマージナルな存在として、そのような扱いを受けたり、哀れに感じるほどスクエアな人から鼻で笑われたりすることがあるのであり。

 自分がマージナルな存在であることを恥じる必要は、一切ない。でも、法律含む社会のデザインが、実態に対してかなり遅れている_(3)参照_ことは、常に意識しておいた方が良いと思う。


(0)即ち興すということ

 何もしないよりは、何かしたい。早い話それに尽きる訳ですが、私の場合JAZZの即興演奏も、日常的営為も、魔術的行為も、実はそれぞれ大した区別がなかったりする。「日常に魔術を持ち込んではならない」といった(前々世紀の)教えを金科玉条のごとく大切に守っている人も未だいるようだし、それはそれでレアもとい立派だと思いますが、正直、何と言うか、あららしょーがないねと感じることもしばしば。区別≒けじめをつけることによって、致命的にもグレーゾーンの不可視化は言い過ぎかも知れないが、少なくとも階調に対して鈍感になってしまっているケースは、あまりにも多く散見される。

 鈴木大拙『禅による生活』から少し引用しようかと思ったがややこしい話になると嫌なので止めた。止めたけど、何かを発見ないし体験した人が、発見ないし体験したことについて黙っていたのでは、発見ないし体験したことは誰とも共有されることはない。

 説明を端折るので何のこっちゃかも知れないが、私が問題にしているのは、いわゆる「エビデンス」たらの提示とは違う「言葉による記述/記録」についてなのです。


(1)いろんな「夢日記」と「正しい」日本語

 無意識の現れ、脳が自らのデフラグを行っている、などなどいろんな説明があって、予知夢のように説明は難しくてもそうとしか言いようのない夢があったりする。また、夢は、私たちが覚醒状態で送っている日常を支配するのとは別の論理によって支配されている/支配されていない場合が多い。テーブルに羽が生えて空を飛んだり、羽を持たない鳥は空を飛べなかったり。時制の混乱、人称の混乱というかワタクシゴトがアナタゴトだったりすることがある。

 正直なところ私は、「正しい日本語」にあまり興味はないんですが、職業的に「興味ないです」では済まない場面も多く。そこはもう、ぶっちゃけ本当にどうでも良いと思っている訳ですが、夢日記を記す上で「有効な日本語」とは何か。


(2)Magic(k)al Recordと言語的態度

 道元禅師の『正法眼蔵』を、日本語による回りくどい魔法日記だと言った人がいた。それについて今何か言おうとは思わない。

 西洋魔術の話。前世紀の魔術師 アレイスター・クロウリーは、魔術を『……科学でありアートである』と定義している。所詮は単なる志しかも知れないが、単なる志しであるなら尚のこと、極めて個人的な体験/作業の記録を、可能な限り客観性を担保したカタチで記述したいと思うのが人情というものだろう。

 ある時、その筋の先輩が言った。

「クロウリーの文章は、第一義的には自分宛の備忘録だから、意味わからなくてもそんなに気落ちする必要はない」

 はあ。ありがとうございます。でも自分、あの人の文章からは「何とかして伝えたい」という意味不明のパッションを感じるんですが、それも「自分宛」のものなんでしょうか?


(3)確定申告を通して見えてくるもの

 社会の仕組みと、実際にそこに生き暮らしている人の在り様とのギャップ。とでも言いますか。

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