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正解なんて初めからないのになぜ正解を追い求めるのか


学生時代から正解を答えることがいいことだと刷り込まれる

当たり前に日本の教育を受け続け、常にテストやらなんやらで聞かれる。
答えはなんですか?→はい正解です!えらいですね!すごいですね!
正解を答えることが善でありいいことだと刷り込まれてきた。
そして、常に正解があるものだと思っていた。

この、いわゆる正解というのは誰かが作ったものであるにもかかわらず。。

数学なんかは単純明快でわかりやすかったので好きだった。でも国語は難しかった。理由はオープンクエスチョンだと何について問われているのか、正解の回答を想像しにくかったから。
でも今考えると、なんだって正解だったんじゃないのかなー。だって、文を読んで、自分の考えを書いているんだから、、、
でもそこにもやっぱり模範回答、つまり正解が決められていて、それにそってないと点をもらえなかった。私は国語でその模範回答にそった回答が難しく、点数が低く、なんとなく苦手だなーと思ってた。

オープンクエスチョンに苦手意識が芽生える

よくあったのが、ざっくりとした全体の話をされたあとに、どう思いますか?という質問だ。
どうってなにが??はっ??って感じで苦手だった。

いいと思います程度にしか思ってないし、なにを求められているかわかりにくいことが多かった。
なので聞き返すこともあった、どうとは具体的に何について質問されてるんですか?と言った感じに。
質問する方もなんについて答えて欲しいか、具体的に言わないとわかりにくいと思わないのか?と疑問に思ってた。
そんなこんなで、なんでこんな無駄な質問するんだって気持ちと、なにを答えたらいいかわからない、正解がわからない不安がちょっとずつ増え、オープンクエスチョンを苦手に感じるようになった。

仕事は支障なくできるけど、自分のことについてはなんだかうまくいかない

仕事は学校と同じで正解があった。だからそれにそってやれば仕事はできた。もし迷っても他の人に相談して決めればよかったので、正解を導き出すことができた。
仕事も正解をやればよかった。
だから歳を取るまで自分について考えるとこを無視してきてしまった。

家を決めるのが難しかった

なんでか知らんけど、家が全然決められなかった。どんな家がよくて場所はどこが良くてなには譲れないのか?
家賃は安ければいい、場所は駅にアクセスできればよいくらいしかわからなくて、何件も何件も見るけど全然決められない。
疲れて適当にきめて後悔するってのを繰り返した。

仕事を決めるのも難しかった

仕事も専門職だからある程度縛られるけど、それ以外何がしたいとか、何が好きとかわからなくて全然決められなかった。こだわりとか自分のプライドとかわからなかった。

なんでも友達や家族に相談して決めることが多かった

自分のことはそんなこんなで迷いすぎて、友達や親に相談してみることが多かった。そうするとそれでいいんじゃない?とか、やめたら?とか言ってくれるのでそれにそって決めることが増えた。
しかし、いいんじゃない?と言われてもしっかりこないことも多くて、それでまた悩むことが増えていった。

どっちでもいいんじゃない?って言われて、つきはなわれたように感じた

なんでもかんでも人に聞く癖がついて、挙げ句の果てには、どっちでもいいんじゃない?って言われることが増えるようになった。そこで私は、なんで真剣に考えてくれないの?と思ったこともあった。
でも結局は自分のことは自分で決めないといけないんだとやっと気がついた。
それが30手前。。やらかしてる。

自分探しに躍起になり始める

それから自分って何が好きなんだろう?とか考え初めて、自己啓発本やSNSあさりを始めた。
読んでも読んでもわからなかった。
大体、自分を好きになろう、自分を許そうとか、インナーチャイルドを癒そうとかそういった類いのことが書かれていた。
ふーんそっかと思って本に書いてあることをやってみたりしたけど、なんとなく時が過ぎて、また正解を探していた。
探しても正解がわからなかった。日本で一般的に正解とされることが私には当てはまらず、絶望感もあった。。

そもそもの人生のスタートがいわゆる日本人レールから外れていたので、その時点で常に違和感はあった。日本人的正解を常に探すけどなんとなくズレてしまう。

益田ドクターのyoutubeを見始めた

時間が増えたのでyoutube漁りをはじめて、精神科医の益田ドクターの動画を見始めた。
はじめは自分が鬱なのか?発達障害があるのか?と思ったから見始めたと思う。それからちょこちょこ見だした。見始めてからやけに腑に落ちて、気持ちが一旦落ち着いた。

人生に正解なんてないんだってさ。。

生まれた意味もないんだって。

そりゃそうだよね、親が妊娠したから産まれただけだし、意味なんてない。

人生の正解なんてないし、仮にいわゆる正解を選んだとしてもそれがイコール自分の満足や幸せにはならない。人生は幸せになることが大切だとなんとなく刷り込まれてたけど、別に幸せになる必要なんてないし、正解なんてないから。

正解を求めること自体、無意味なんじゃないかと気がついた。

じゃあなんで正解を常に追いかけていたのか?それは正解こそが善であると思い込んでいたから。
いわゆる日本的正解は、ベストまたはベターに近いかもしれないけどそれが万人受けするとはいえない。正解を選ぶことが良いことであったとしてもそれが自分にとって幸せだったり喜びになるかは別問題だ。

正解を選ばなくたっていいんだ。

私は、私のしたいこと、興味があることをやっていいし、意見だって私が答えたいように答えていい。正解を探さなくてもいいんだ。求められていることとはずれるかもしれないけど、とりあえず自分の意見を言って、それがお互い通じ合ったらラッキー!くらいな感じでいいんじゃね。

正解なんていらぬのだよ。初めから無いんだから。

幸せなんて追い求めなくともいいんだよ。





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