見出し画像

「No.17」「リアルな日本昔ばなし」山本芳翠の《浦島図》

こんにちは!かずさです!

最近、某動画サイトのエヴァ紙芝居を見ていて、凄く分かりやすいなあと感動しています。嵐も紙芝居の読み聞かせをしてますけど、流行ってるんでしょうか?紙芝居…。

紙芝居といえば、スタンダードは「浦島太郎」とかの昔ばなしですよね。多くの人がイメージする浦島太郎って

画像1

こんな感じだと思います。幼い子向けなので、だいたい丸顔で可愛く優しい感じで描かれています。ですが、今日紹介する作品は可愛いとは一味違うアダルティな(?)浦島太郎です。

作品紹介

今回の作品は山本芳翠(ほうすい)の《浦島図》です。

画像2

明治28年(1895年) 油彩画 H124cm×W170cm 岐阜県美術館蔵

先頭には、亀に乗り箱を持った青年。周りに豪華な髪飾りを付けた女性、子供、老人を引き連れています。青年が振り返る視線の先には、羽衣をまとった女性とその従者たちが、そしてその奥には豪華な城がぼんやりと浮かんでいます。

先頭の青年は持っているものからして主人公の浦島太郎です。なので、後ろの方にいる羽衣の女性は乙姫なのでしょう。でも何だか…テーマはとても日本的なのに、描かれているものはあまり日本的ではありませんよね?

周りの女性たちは、どう言ったらいいのでしょうか。これがヨーロッパのアートだったら(ギリシア神話の絵の中で)、間違いなく「ニンフ」と言えるのですが、これは日本昔ばなしだから…。仙女でしょうか?ちょっとカテゴライズに困る感じです。

この西洋絵画のような「浦島太郎」を描いた山本芳翠ってどんな人なのでしょうか?

山本芳翠と明治美術会

山本芳翠(1850-1906)は、最初から洋画を学んだ人ではありませんでした。初めは「南画」という中国の元、明、清の時代の画に影響を受けて江戸時代に発展したものを学んでいました。この南画は文人画とも呼ばれ、江戸時代では谷文晁(1763-1841)などが、明治期では富岡鉄斎(1837-1924)が活躍しました。

画像3

谷文晁 《緑青山水図》 江戸時代後期(1807年)

芳翠も南画をより学ぼうと中国留学を考えていたのですが、その途上でとどまった横浜で写実的な表現を持つ洋画と運命的な出会いを果たし、洋画に転向します。

転向からわずか6年後の1878年、パリ万国博覧会の事務局雇としてフランスに留学します。そこで芳翠は「エコール・ド・ボザール」というところで学びました。このエコール・デ・ボザールには教授として、当時のフランス・アカデミズム絵画を陣取っていたジャン・レオン・ジェロームがいたのです。

画像4

ジェローム《アレオパゴス会議のフリュネ》 1861年 油彩画 H80㎝×W128㎝ ドイツ、ハンブルク美術館蔵

芳翠が渡欧した頃、パリでは印象派が盛り上がっていました。しかし、師であるジェロームはアカデミー会員でサロンの審査員という立場もあり、この印象派が大嫌いでした。ジェロームの好き嫌いに関わらず、エコール・デ・ボザールは国立の美術学校なので、芳翠はアカデミズム的な絵画をみっちり勉強していました。

留学生活の中で、芳翠はある人と出会います。当初、法律を学ぶつもりで渡仏していた黒田清輝(1866-1924)でした。黒田に画家になるよう勧めたのは芳翠であるとされています。

画像5

黒田清輝《湖畔》 1897年 油彩 H69㎝×W84.7㎝ 黒田記念館蔵

そんなパリを後にして、帰国後に芳翠は後進の育成に尽力するようになります。フランス風の画塾を開いたり、洋画を排斥した東京美術学校に対抗して、浅井忠などと一緒に明治美術会を結成しました。今回の作品《浦島図》は、第7回明治美術会展の出品作品です。


《浦島図》と《ガラテアの勝利》

話は少し戻りますが、芳翠がフランスで学んでいたアカデミズム絵画とは、ラファエロの作品を1つの規範とするものでした。ジェロームより1世代前のアングルもアカデミズム的な性格を持っているのですが、彼はイタリア留学中にラファエロの《ガラテアの勝利》の模写を行ったりしています。

画像6

ラファエロ《ガラテアの勝利》1511年 フレスコ H295cm×W225cm

また、ジェロームと同時期に活躍していたアカデミズムの画家ブグローも《ガラテアの勝利》の構図を参考にしたと思われる作品を制作しています。

画像7

ブグロー《ヴィーナスの誕生》1879年 油彩画 H300cm×W218cm フランス、オルセー美術館蔵

《浦島図》の構図とこの2作品の構図を見比べて欲しいのですが、何となく似ている気がしませんか?帰国後、芳翠がフランス風の画塾を開いていたことを考えるとアカデミズム絵画にとって重要なラファエロの作品の構図を念頭に置いていたことは十分に考えられます。

そのため、浦島太郎や乙姫の周りにいる裸体の人々もニンフを意識したものと思われます。

さらにこの構図で、《浦島図》を描いたのにはもう1つ理由があると思います。この頃(明治中期)には、西洋文化の流入から、日本文化を尊重しようという「国粋主義」という動きがありました。《浦島図》だけでなく、日本的な題材を洋画の様式で描く和洋折衷的な作品が描かれていたのです。

画像8

山本芳翠「十二支」より《丑「牽牛星」》 1892年 油彩

また、フランスのアカデミズム絵画の中には、ジャンルの序列があったのですが、歴史画や神話画はその中で高く位置付けられていました。

芳翠にとって神話画の構図で浦島太郎の物語を描くことは、「自国の文化を尊重しつつ、自国の物語を高く評価される作品で表現したい」という気持ちが表れているように思えてくるのです。


今回、浦島太郎の世界を表現した作品を取り上げてみましたがいかがでしたでしょうか?よく知っている物語でも、こういった形で見るとちょっと新鮮ですよね。《浦島図》は岐阜県美術館に所蔵されているので、旅行した際にはぜひ行ってみてください!

次回は、ヨーロッパのアートを紹介します(o^―^o)


画像は全てパブリック・ドメインのものを使用しています。

**********

今回参考にした本、おすすめの本を紹介します!ぜひ、おうち時間に読んでみてください!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?