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「No.22」「秋田蘭画」小田野直武の《不忍池図》

こんにちは!かずさです!

前回の日本美術の紹介で、来航するヨーロッパの人々が描き込まれた《南蛮屏風》を取り上げました。その後、キリスト教の禁令やいわゆる鎖国政策などで海外との交流は少なくなりましたが、長崎の出島を玄関口としてオランダの書物などが入って来ていたことはよく知られていますよね。

今日は、そんな江戸期に生まれたヨーロッパの影響を受けた作品を紹介します。

作品紹介

今回の作品は、小田野直武の《東叡山不忍池図》です。

1770年代 絹本着色 98.5㎝×132.5㎝ 秋田県立近代美術館蔵

近景というか、間近に鉢に植えられたシャクヤク、キンセンカ、サルビアがあり、その鉢の影が後ろの池に向かってのびています。池は靄がかかったようにぼんやりと浮かび上がり、そのために池のさらに遠景にある建物も霞んで見えます。

シャクヤク

まるで、空気遠近法が使われているような絵です。ヨーロッパの絵のような風景画が「絹本」という水墨画でも用いられるものに描かれ、また右下には落款が捺されています。ヨーロッパなのか日本なのか…、作品を見ると頭が少し混乱する感じがあります。

これは、現在「秋田蘭画」と呼ばれている作品です。この作品が出来上がった背景がとても面白いので今日はそれを主に見ていきたいと思います。

享保の改革

享保の改革については、歴史の教科書で出てくるところなので、内容をよく知っている方も多いと思います。

私は高校のとき世界史選択だったので、実はあまり日本史が分かりません…。ちょっとこの改革がどんなものだったのか整理してみました。

享保の改革 
8代目将軍吉宗によって1716年から1745年にかけて行われた改革。家康時代への復古を目的とし、御用取次が新設された。また、財政再建の企図、商業資本の掌握、江戸の都市対策の強化が行われた。

このようにありました。吉宗はこの改革の際、米価の安定にも努力したので「米公方」とも呼ばれたそうです。

経済的な話が注目されているこの改革ですが、文化的にも大きなことがありました。それは、「キリスト教以外の漢訳洋書輸入制限の緩和」です。

このことにより宝暦、天明期に洋学が発達しました。この期間に活躍した人物の中には杉田玄白や平賀源内がいます。

この2人が今回の画家小田野直武と関わってくるのです。

秋田蘭画

秋田とこの2人にどのような関係がと思うかもしれません。1773年、秋田藩士である小田野直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して、平賀源内に技術を教えてもらいに江戸に行きました。

なんだか長くて分かりにくい名前の役職ですが、鉱山技術についての仕事のようです。そこで、ヨーロッパ美術の知識を持っていた源内に遠近法や油彩画を教えてもらったそうです。

(源内にいつ洋画を教えてもらったのかは議論が分かれていて、秋田に源内が滞在した際であるとも言われています。)

元々、直武は絵に対して全くの素人というわけでは無く、狩野派を幼いときから習っていたので飲み込みも早かったようです。

源内の油絵も残っていますが…

うーん…。少し言いにくいですが、生徒の直武の方が明らかに優秀ですよね。

さて、そんな感じで江戸に滞在していた直武ですが、源内と交友のあった杉田玄白から「君は西洋画が描けるそうだが、『解体新書』の挿絵を描いて欲しい。」と頼まれてしまいます。

まだ、洋画を学び始めて日が浅かったため直武は挿絵を描きながら、ほぼ独学で洋画の画法を学んだそうです。

左の有名な挿絵も直武によるものです。

この挿絵の男女のポーズをよく見てみると、片足に重心をかけてもう一方の足を少し曲げています。このポーズは古代ギリシャのクラシック時代からあるもので、「コントラポスト」と言い、西洋美術の中では基本的なものです。

「西洋画の本があったのならそれを写せばいいのだから簡単では?」と思うかもしれませんが、コントラポストは人間の筋肉の動きを解剖学的に考えたポーズであり、正確に描こうとするには皮膚の下にどのような筋肉があるのかを知っておかなければなりません。

例えば、この作品は1475年にベルギーの画家ファン・デル・フースによって描かれた《アダムとエヴァ》なのですが、エヴァはコントラポストのようなポーズをとっていますがこれは正確にはコントラポストになっていません。

コントラポストはこの画像の矢印のように力が掛かっていないとダメなので、エヴァのようにお尻が下がってしまっているものは「コントラポストもどき」となってしまいます。(矢印が曲がっていてすみません汗)

ここで、直武の挿絵を見てみると

こんな感じで力が表現され、コントラポストがしっかり描けているということが分かります。(まあ、医学書の挿絵で筋肉の表現が出来ていなかったら困るのですが…)

しかし、挿絵1つ取っても彼の技量や飲み込みのスピードがどれほどのものであったかをうかがい知ることが出来ます。今回の作品《不忍池図》の花の細かな描写や丁寧な背景描写にも見られるものです。

「解体新書」の挿絵を終えた直武は、秋田に戻り藩主の佐竹曙山に洋画の知識を伝えました。小田野直武と佐竹曙山を中心にした秋田藩で制作された洋画は「秋田蘭画」と呼ばれています。

今回は、《不忍池図》というより「秋田蘭画」の話が主になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか?残念ながら、小田野直武は30歳のときに亡くなってしまうのですが、彼の作品は《不忍池図》が所蔵されている秋田県立近代美術館など秋田県各地で見ることが出来ます。

直武に影響を受けた佐竹曙山や司馬江漢の作品もとても素敵なので、後で取り上げてみたいと思います。

次回は、ヨーロッパのアートを紹介します(o^―^o)

画像は全てパブリック・ドメインのものを使用しています。

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今回参考にした本、おすすめの本を紹介します!ぜひ、おうち時間に読んでみてください!

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