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『音楽文』『MIU404』最終回”感電”が聴こえなかった。 米津玄師“感電”で「探し回る」ものは何なのか。


2020年9月28日♥36
ドラマ『MIU404』が最終回を迎えました。米津玄師さんのファンである私はドラマ自体も好きでしたがラストに流れる主題歌、米津さんの歌う〝感電”もドラマを観る大きな要因の一つでした。

 毎週〝感電”が流れるのが楽しみで、下手をするとドラマの内容よりも〝感電”の印象が強くなってしまうこともあるほどでした。

 それが、最終回の時だけ、〝感電”が聴こえませんでした。

 勿論実際は流れていて、録画したものを観た時はしっかり聴こえたのですが……。

 それだけ、〝感電”がドラマに溶け込んでいたのでしょう。

 そして、〝感電”が聴こえないほどドラマの世界に引き込まれてしまいました。このドラマを後々観る人に伝えたいなぁと思うことがあります。最終回、オリンピックの中止が想定されたかのような内容でしたが、ドラマの撮影が始まった頃は、オリンピックはまだ開催予定だったのです。他にも第4話の美村里江さん演じる青池透子の「私なんて手取り14万で働いているのに」はコロナ禍のなか最前線で働く看護師の手取りが14万という報道の前に、第5話に出てくる「GO TO 強盗」という設定は「Go To トラベルキャンペーン」を政府が打ち出す前に、いずれも書かれたものだということをです。〝感電”で

「響き合う境界線」

という歌詞がありますが、境界線で分けられている現実と非現実がまさに「響き合う」ドラマだったのです。

 あと、これは私の妄想なのですが、ラストはバッドエンドでも粋だったかな……と。

 ドラマを観ている最中は、星野源さん演じる志摩一未が死に、綾野剛さん演じる伊吹藍が久住を撃ってしまうというシーンが夢で心底ほっとしたのですが。

 でも、『MIU404』と同じ制作チームで、同じく米津さんが主題歌を歌った『アンナチュラル』との対比を考えると夢の方がドラマのラストに相応しかったのではないでしょうか。

 『アンナチュラル』は人の死がテーマなため、一話一話が重く暗い内容でした。ですが、恋人を殺され、犯人を殺そうと誓っていた井浦新さん演じる中堂系は、それを実行に移さずに済みました。さまざまな出逢いのお蔭で。最後には主題歌〝Lemon”のように仄明るい〝救い”があったのです。

 これに比べて、『MIU404』は軽やかなテンポのドラマなのですが、最後は〝救われない”というのも、現実は救われることばかりではないので、ありだったのではないかとも思います。

 もしかして「夢」バージョンのラストも想定されていたのではないのでしょうか。

 「夢」のなかでは、「中止」となったオリンピックが開催されています。

 オリンピックの浮ついたお祭り騒ぎの最中だったら、バッドエンドも意味のあるものだった気がするのです。

 しかし、今の新型コロナウイルスCOVID-19による日本だけでなく世界の混乱の中ではバッドエンドは観ている私たちが耐えられなかった気がします。

 混乱し、不安な世界にはバッドエンドでなかったのが有難かったです。これは、以前「音楽文」にも載せていただいたのですが(皆さん、”感電”お済みですか?米津玄師“感電)、ドラマ初回で伊吹が、言った


「よかったな 誰かを殺す前に捕まって。」

「機捜っていいな。誰かが最悪の事態になる前に止められる。」

という台詞がドラマのテーマにつながるのではないかと思っていました。やはり最終回には、伊吹のこの台詞に答えるように相棒の志摩が菅田将暉さん演じる久住を生きたまま逮捕し、彼にこれ以上犯罪を行わせずに済んだことについて、

「最悪の事態になる前に俺たちが止めた。」

と言っています。

 そして、夢の世界でしたが、二人とも正義を体現する警察官でありながら、憎しみにかられて思わず人を殺しそうになってしまう狂気も描かれました。そして「俺は、お前たちの物語にはならない」と言った久住。彼の物語はドラマを観ている私たちにも明かされませんでしたが、「悪人」だけれども、彼が「悪人」という言葉だけで表現できる人間でないことを感じさせていました。菅田さんの演技と野木亜紀子さんの脚本の力で。

 私は前述の「音楽文」で「「悪人」という人間がいるのではなく、どの人間の中にも「悪人」と「善人」がせめぎ合っていて、何かのきっかけで悪人の部分が多くなり表出してしまう、それが犯罪で、誰しもそちら側に行ってしまう可能性がある。それを止められるのは何なのかをドラマの最後に伝えてくれる気がします。」とも書いたのですが、この答えは、私が個人的に一番響いた台詞、第10話で伊吹が桔梗隊長の息子ゆたか君に言った台詞に隠されている気がします。

「正義って、すっげー弱いのかもしれない」。

 自分がちょうど、同じようなことを考えていたので、この言葉には驚かされました。

 仕事でも、人間関係でも正しいことつまり「正義」ってありますよね、本に書いてあるような。私はなぜ職場や世の中で、それが通らないのだろうとずっと不思議でした。「正義」よりも、恫喝するような人間が行うずるいこと、力のある人に取り入るような人間の行う卑怯なことの方が罷り通ってしまうことが多いということが。

 だけど、最近気づいたことがありました。

 ずるいこと、卑怯なことをしようとする人は、自分がやろうとしていることがずるい、卑怯ということをよくよく承知していて、本当に知恵を絞って、事に当たるんですよね。それに比べて、正しいことをしようとする人間は、自分は正しいということに胡坐をかいてしまっていて、知恵を絞ってないのではないかということに。

 「正義って、すっげー弱いのかもしれない」

 きっと、それは真実で、でも、だからこそ正義を通したかったら、自分は正しいのだという気持ちに胡坐をかかずに、完全犯罪を実行するような周到さで正義を行わなければ、負けてしまうのだと。


 「正義」は弱い。それでも、「正義」を諦めない。それが、このドラマのテーマだったのではないでしょうか。このため最終回は、バッドエンドにする訳にはいかなかったのでしょう。さらに、そのテーマを際立たせるために、バッドエンドの夢を描いたのではないでしょうか。

 そして、「正義」それは、〝感電”の歌詞のなかの「永遠」-不変なもの-という言葉に置き換えられている気がします。本当の「正義」は、時代によって移ろわない不変なものですので。

「きっと永遠が どっかにあるんだと

 明後日を 探し回るのも 悪くはないでしょう」

 ここの歌詞は、どこかにある「永遠」-正義-を「明後日」-見当違いの場所-だとしても、探し回ろう、二人で、ずっと。私には、そういう意味にとれるのです。

 ドラマが終わった後も、「正義」を伊吹と志摩と、そして米津玄師が、どこかで探し続けてくれている気がしてなりません。

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