【カンリー CIO就任】信念をもって事にあたり、 世界観をもとに業を成す〜最高の仲間と、歴史を作ろう。〜
はじめまして。カンリーの専門役員 CIO (Chief Incubation Officer) に就任しました、萩野貴拓です。
今、このnoteをインドのバンガロールの市街地にあるコワーキングオフィスの屋上で書いています。
端的に言うと私は、社会課題を解決する新しい概念を作り続けるために、研究開発、事業開発、製品開発を並行してきたソフトウェアエンジニアです。
様々な経験をしてきましたが、意識して今のキャリアを築いたわけではなく、自分の信条に従って歩いてきた結果にすぎません。
本来であれば、この挨拶で私がカンリーで担う先端技術や事業領域の拡大、グローバル進出について語るべきですが、はじめに私がなぜカンリーに入社したのか、私の仕事に対する哲学と、その意思決定にいたるまでの背景についてお話させてください。
地味で地道な、起業家の背中
これは「才能の最適配置」というミッションを掲げ、まだ今のようにスタートアップのエコシステムが成熟していなかった時代からベンチャーヒューマンキャピタルを標榜していたスローガン株式会社の創業者の言葉です。
私が学生時代に友人の誘いで参画した同社は、この強力な哲学によって多様で非凡なタレントを集め、信念と世界観こそが事業の原点であることを教えてくれました。スローガンがもつ哲学が私のキャリアにおける三つ子の魂として今も宿っています。
ただ当時の私は、カリフォルニアンイデオロギーの信奉者でもあり、技術の力で解決できる課題にレバレッジをかけたいという思いが強く、そんな折に出会ったのが株式会社ビズリーチでした。
スローガン時代に、キャリア採用領域に問題意識を持ち新規事業としてダイレクトリクルーティングサービスの立ち上げをしていた折、急速に成長するビズリーチは手強い宿敵でありましたが、その経営手法は荒々しく粗暴に見えて、好意的な印象を持っていませんでした。
スローガンを飛び出して起業するパートナーを探し始めた頃、インターンシップ時代からの仲間であり尊敬するデザイナーがビズリーチに入社したということを聞いて、彼の紹介でビズリーチが当時創業者の肝いりで始めようとしていた事業の責任者と話しにいったのでした。
その日のことは昨日のことのように鮮明で、忘れられません。事業責任者である彼のことは起業家としても以前から知っていましたが、大言壮語にも思える未来の話であっても自信に満ち溢れ、信じられないほどの採用力で業界の有名な経営者、エンジニアがこぞってこの事業に参画していること、当時グローバルでの先行者は誰もが知る有名なサービスで、技術的にもビジネスモデルとしても無謀に思える挑戦をしようとしていたこと。さらに、事業計画は10年の歳月をかけて巨大な事業に育てるために深く深く潜るという強烈な意思決定に言葉を失いました。
このビズリーチの創業ボードが全員祖業である主力事業を離れて始めた事業が、アグリゲーション型求人検索エンジンのスタンバイでした。この新規事業はビジネス、財務、そして人材どれをとってもアクセルの踏み方が当時の私には想像もつかないほど大胆かつ野心的で、経験年数が一回り以上違う業界を代表するエンジニアに囲まれ、名だたる起業家、経営者経験のあるメンバーが膝を突き合わせて、毎日ぶつかり合う環境では、20代半ばの自分にとって当たり前の基準が上がらざるを得ませんでした。
2014年にこのスタンバイの立ち上げをきっかけにビズリーチに入社してから10年、グループも含めた会社全体の従業員規模は入社当時からおよそ10倍になっていました。
同社が草の根で文化醸成し日本にも根付いてきた「ダイレクトリクルーティング」を地で行っており、創業者はもちろんボードメンバーだけでなく、全員が創業メンバーとして尋常ではないほど採用に時間と労力をかけています。「事業づくりは、仲間づくり」というバリューが組織の隅々まで浸透しており、代表が毎日のように「一人が一人、自分より優秀な人間を巻き込む。倍々成長だ!」と叫び、組織が指数関数的に成長することが当たり前である、そんなモーメンタムの強さも日常であれば当たり前になっていきます。
転職を繰り返すのが当たり前のTech業界に身を置きながら、あっという間に10年在籍していたのは、紛れもなく昨日とはまったく違うことをしている今日の連続で、100回変わる会社が100年続くのだろうなということを肌で感じましたし、どうすれば、これだけ強靭な事業、組織、会社を生み出せるのか、再現性をもって実現できるのか、という強い興味が私を惹きつけ続けていました。
ある日、創業からビズリーチを支えるCTOから「経営者の仕事ってなんだと思う?」と問われ、「課題を解くことではないですか」と答えた私に「課題を見つけることだよ」と言われたことが起業家の本質を表しています。
社会課題は「社会構造の変化」そして「技術革新によっておきる変化」いずれかの根源的な変化によってもたらされます。私が見た創業者の姿は、その変化を徹底的に収集し調べ、変わり続けるために学び続ける。課題を見つけ、突き抜けるまで問い続ける。メディアでスポットライトを浴びるきらびやかな姿とは裏腹の、地味で地道な愚直な努力を続ける姿でした。そんなビズリーチの創業者の背中を追いかけ続けた10年間だったように思います。
電車に乗れば先頭から最後尾まで歩いてすべての車内広告を見て回るように、どんなことでも学びに変える姿。世界中に人脈をつくり会いに行く。面白いと感じれば知人でなくとも突然声をかける。
人事を尽くして調べ、解くべき課題を見つければ、いつもどこでも何度でも熱い感情を持って仲間探しに奔走する。そんなアントレプレナーの姿が私の目に焼き付いています。
そして、彼がことを始める時、彼一人ではもちろん成し遂げられないことを、成し遂げてくれる仲間が一人、二人と集まる。これこそが起業家にとって、最もぶれない軸なのだと痛感しました。
「最初のフォロワー」になる勇気
「裸踊りの男」という動画をご存知でしょうか。
一人の男性が大胆に踊り始め、最初は誰も加わりませんが、次第に「最初のフォロワー」が現れ、やがて群衆が彼らに続きます。この動画は、真のリーダーシップがムーブメントを生むのは「最初のフォロワー」が加わる瞬間であり、その勇気が大きな変化を生むことを教えてくれます。リーダーだけでなく、フォロワーの重要性を考えさせられる動画です。
ビズリーチの創業者はまさに「裸踊りの男」に重なります。そして、裸で踊る男を見つけ、最初のフォロワーになることが、ムーブメントを起こす最短の方法なのではないか。そう考えるようになり、私はそんな人物を探すようになりました。
それはきっと、狂った人物で、ときにバカっぽく見えるかもしれないし、だれの相手にもされてない人物かもしれない。私にできることは、勇気を持って彼の横に飛び込み、彼の世界観に心から共感し、自らの未来に信念を持つこと。そして彼とともに踊り、最高の仲間を巻き込むこと。
大義に殉じ、信念を持ち、実現することは無謀とも思える世界観を語れる人物といっしょにいることが、私にとって業を成す唯一の方法なのではないかと考えるようになりました。
株式会社COMPの創業者も「裸で踊る男」の一人でした。薬学の研究者であった彼は狂ったように研究に、趣味に没頭するあまり寝食を忘れ、体を壊したことがきっかけで、没頭したいことに「完全に夢中」になれる食品をつくるべく試行錯誤したレシピを世界に発信していました。これを商品化するのですが、研究に没頭してきたあまりビジネスとして成立させることに苦労し、一人で裸踊りをしている彼の周りには多様な専門性を持った仲間が一人、二人、と集まっていきます。ビズリーチで多忙な日々を送りながらも彼を助けたいと思った私もその一人でしたが、完全食COMPはその強い思いに共感したユーザーが自然に伝播し、多くのユーザーに愛される製品に成長していきました。(2024年にUHA味覚糖が同社をM&Aしています。)
挫けそうになるどんな苦難が訪れようとも、踊り続けるCOMPの創業者の横にいることで、私は一緒に踊ることができたのだと気づいたのでした。
私は多くの成功した起業家のように、自らの未来に対して信念があるわけでもなく、世界観をつくる力もない、ふと気づけば自分の経歴をキレイにしようとレジュメビルディングばかり考えるズルくてツマラナイ人間に成り下がってしまう。出来上がったムーブメントに乗ることは快適だし、容易い。
水は低きに流れ、人は易きに流れるもの。そんな惰性が訪れたとき、世の中を良い方向に変えたい、そのために愚直に問題に取り組み、地味に地道に世の中をより良く変えていく、そんな「裸踊りの男」とともに踊り始めるのです。
裸踊りの起業家に出会って
カンリーの共同創業者、秋山との出会いは遡ること2022年の夏。当時M&Aやアライアンスなど事業開発のためにネットワーキングの必要性を感じていた私は、ビズリーチの人間としてスタートアップイベントに参加しました。そこで秋山とランチを共にし、意気投合して時間を忘れるほど話し込んだのが最初の出会いでした。
その後、秋山が作りたい新規事業の壁打ちをするうちに、ある日2週間後にお客様のイベントで製品のβ版を提供しなければならないが製品がないので、手伝ってくれないかと相談され、並々ならない状況だと思い、ひとまず付け焼き刃で間に合わせたところから、私が関わり始めた。
その後も新規事業の相談相手として伴走してきたものの、新規事業であるにもかかわらず足踏みをしている状況にもどかしさを感じていました。「秋山さん、新規事業を今のスピードで進めていたら、一生あなたの目指す姿にはならないよ」と正直に伝えたことがあります。チームとしての雰囲気は良いし、対峙している課題や構想もとても可能性を感じる、ただ試す前に議論ばかりしていて遅い。SaaSのようなリカーリング型の製品を作るチームはどうしても草食系になりがちで、常にパフォーマンス収入を生み出し続けることで成長を継続しなければならないHRの世界は肉食でなければ生き残れない。新規事業は常に ”Less is more.” の考え方で進まなければ永遠に芽は出ない。そう信じているので、強く苦言をしてしまった。
頑張っていることは知っているのに、きついことを言ってしまったかなと少し後ろめたさを感じていたのですが、それから会うたびに増して、狂ったように事業に向き合うように彼は変わり続けていました。
愚直に人に会い課題を徹底的に調べ、馬鹿げていると言われても仕方のないような大きな話をして、いつもどこでも何度でも熱い感情を持って仲間探しに奔走する。そんな秋山の姿が、かつて見たアントレプレナーが「裸で踊る」姿に重なったのでした。
テクノロジーのちからで、店舗経営におけるHRの課題を解決する。グローバルなインフラを作るというその信念は、私の培ってきたもの、そして私がやり残したことそのものであり、私は彼の横で踊り始めることに躊躇はありませんでした。
秋山と私たちがどんな世界観をもとに事業を始めようとしているのか。その話をする前に、私のキャリアについてお話させてください。
高校時代、はじめての事業づくり
小学生の頃、Javascriptのブックマークレットに触れたのがきっかけで、Web開発にのめり込み、中学時代にPerlで簡易的な掲示板を作り、SNSがなかった時代に同級生がオンライン上に集まる場を作るのに不思議な魅力を感じたのが私のWeb開発の原体験です。DTMやMTR、CGが趣味だったこともあり、当時は作った作品を気軽に共有できるSNSも動画サイトもなかったから自分のWebサイトを作って、インターネットに公開すると、年齢も地域も違うどこかの誰かがリアクションしてくれるのが楽しくて、インターネットの世界にめり込んでいきました。周囲にコンピュータに詳しい大人がいるわけでもなく、プログラムや計算機を体系的に学んだわけでもないのですが、Web好きな同級生と知識を共有したり、洗練されたWebサイトやFlashのアニメーションを見てインスパイアを受けるたびに、どうやったら実現できるのか、気づけばソースコードをすべて読んで理解し、泥臭くまね事をしたりと、自然にリバースエンジニアリングをしていました。のめり込むと突き詰めたくなる性格で、夏休みの1ヶ月引きこもってモーションアニメを制作したり、誰に使われることもないニッチなWebアプリを量産していたこともあります。
中学時代にWebにのめり込んだこともあって、高校に入学するとクラスではギークなキャラクターとして扱われていたのですが、2年目のクラス替えのとき、「パソコン好きならあいつに話しかけてこいよ」と紹介された友人が僕の人生の大事なきっかけを作ってくれました。
未踏ユースにも採択された彼は、ぼくが話しかけるや突然名刺を取り出し、自分が開発しているソフトウェアのこと、当時言葉として存在していなかったSNSやクラウドなどの概念が世界を変えるということ、そして起業をして一緒に開発してくれる仲間を探していることをギリギリ聞き取れないくらいの早口でまくしたてるのでした。
Perlに変わる新世代の言語として広がり始めていたPHPに触れ、彼とSNSやBlogのシステム開発を始め、「SaaS」という言葉が生まれる前夜、完全クラウドの学校管理職向けのソリューションを開発し、高校在学中に事業を立ち上げるという初めての経験をしました。部活動や学会など出張が多く教員の予定が流動的な私立高校の課題に対して、毎週の時間割を動的に最適化し、学生に最新の情報を配信する学校生活ポータルサービスでしたが、事業というものはそう甘くなく、地元の新聞に取り上げられたきり、ビジネスとして継続的に利益を出すことはできませんでした。ただ進学後に母校を訪問した際に、思いを引き継いでくれた教員が私達が開発したシステムを改修してエントランスのモニターに時間割が映し出されていたのを見て、自分の作ったものが手離れして価値を生み出し続けるとはこういうことなのだなと感慨にふけったのを思い出します。
大学生の頃には、TwitterやFacebookなどSNSが生まれ、ソーシャルの真新しさにハマって毒にも薬にもならないことを日夜ツイートしていたところ、1通のDMがまた人生の大きな転機になりました。
会ったことのない大学の同級生からの連絡でしたが、その後大事な友人となる彼は創業間もないスタートアップでインターンシップをしており、Webサービスの開発チームでエンジニアを募集していると言うことで、二つ返事で引き受けることに。
神田の商店街を抜けた先にある古い雑居ビルに入居していたその会社が、創業間もないスローガン株式会社でした。2011年当時、起業志向の強い学生のインターンシップ先が少なかったこともあり、現在アントレプレナーや経営者、VCやテック企業のエンジニアとして活躍している人が学生時代にスローガンに集まっており、パーティションで区切った手狭なオフィスで、ときに床で寝泊まりしながら開発をするのは青春そのものでまったく苦にならず。iPhone 3Gの発売で急速にモバイルシフトが進み、Webサービスやスマートフォンアプリで起業する学生スタートアップが雨後の筍のように生まれ、連日ビジネスコンテストやインキュベーションキャンプが開催される盛り上がりのなかに私も身を投じました。
“Zero Kick-start Business” 略して「ZKBだ!」と流行りのアイドルのような掛け声で何度もアイディアを形にしては、ビジネスとしての検証をして閉じるということを繰り返し、産みの苦しみに悶えながらも、代表と二人三脚で立ち上げた採用領域の事業が、退職後ではあったものの上場目論見書にしっかりと記されていたのを見て、あの高校時代に作ったシステムを後年に見た感覚が蘇りました。
いかだで漂流したテックカンパニーの荒波
20代前半でチーフエンジニアとサービスUI/UXの責任者を務め、技術者としての成長の余地を感じなくなっていた自分が、意気揚々と飛び込んだチームですぐさま鼻をへし折られるのは当然でした。
2014年にビズリーチに入社し、参画した求人検索エンジンのスタンバイの開発チームはCTO自身も開発していたSeesaaプロジェクトの主要なコミッターを彼の人脈で集められたドリームチームで、全員がオープンソースコミッター、CTO経験者、起業家のいずれかというようなアベンジャーズです。私はたかだか小さなWebサービスを開発していただけで、対等に仕事ができるような相手ではありませんでした。Scalaを採用して大規模なマイクロサービスのアーキテクチャを採用しており、並行処理にはAkka、検索エンジンにはElasticsearch、分散処理にはSparkと経験のない技術スタックへのキャッチアップはすぐにはできず。このままではチームから外されるのではないかという恐怖から、誰もができないことで貢献できないのなら、誰もやりたがらないことをやりきって信頼を得る以外に生き残る方法はない。そんな生存戦略で、バーティカル検索の立ち上げの最も泥臭い部分を「1000サイトの求人全部インデックスして」「クローラーの保守チーム作るから、5人採用して。今月中に」「100万件ある求人の状態をリアルタイムに更新したい。できるでしょ?3日後まで、よろしく」などの無茶振りを死線を漂いながらもやり遂げ、僅かな休憩時間も通勤中も技術書を血眼で読み、大型の連休や年末年始は学生時代からのエンジニアの親友を自宅に招き、お互いを缶詰めにして連日勉強をしていた日々が報われ少しずつ信頼を得て、スタンバイのリリース後、ビズリーチ社が機械学習を中心とした研究開発部門を作る意思決定をした際に、これを任せてもらえたことはまったく計画的ではない偶発的な機会でした。
人と企業のマッチングというアナロジーで事業を水平展開している同社では、レコメンデーションが最大の課題でしたが、当時は現在のようにクラウドのフルマネージドな機械学習のソリューションはなく、データプリプロセッシング、レコメンデーションモデルの計算基盤、バッチ計算の分散処理やリアルタイムプレディクションのサービングなどをスクラッチで開発する必要がありました。
ある日、私が師と仰ぐエンジニアから「気になっているプロジェクトがあるから萩野さんとりあえず使ってみませんか?」と勧められたのがPredictionIO というオープンソースでした。
Scala, Sparkをベースに開発されている機械学習基盤のフレームワークで、その構想は確かに私達の課題にフィットするものでしたが、プロジェクトとしてはIncubated Statusでさっそく使い始めてみるとバグも多く、プロダクションではまともに使えないと感じ、やらない理由を探してこの技術の採用を見送ろうと提案しましたが、バグなら修正すれば良い。対応がないなら作れば良い。コミッティーにディスカッションを持ちかけて、Pull Requestすればいいじゃない?と当然のように言われ、「いや茨の道すぎるし無理だろ」としばらくどうしたものかと天を仰いでいました。
ただ、師匠に見放されたくはないという一心で、あちらを直せばこちらが壊れる状態のシステムに手を入れ、Elasticsearchなど自社が採用している技術への対応を新たに追加するなど、諸先輩の手助けを受けながら進めていくうちに、熱心な日本人が積極的にコントリビュートしているから仲間に入れようと、PMCから認められ、晴れて Apache Software Foundation プロジェクトのコミッターとなり、日本ユーザー会を立ち上げ代表を務め、カンファレンスやミートアップなどでプロジェクトの伝道師としての活動したことは代えがたい経験です。仕事と趣味が混ざり合うようなオープンソース活動だけでなく、技術書の執筆を経験させてもらったり、ピタゴラスイッチと呼ばれてしまうアートなアーキテクチャを設計したことも、寛容さを持って様々な挑戦をさせてもらえた背景には、日本を代表する地力のあるエンジニアが集まっているからこそ、技術的なチャレンジがリスクにならないということだと考えています。強いエンジニア組織とはどんな状況であれ「まあなんとかできるし、なんとかする」そんな才能の集まりで、振り返って、組織のレジリエンスの強さを改めて実感しました。
機会を作り出し、自らの可能性を広げる
「AI室」という研究開発チームの成果も少しずつ評価され、役割も期待も拡大するなかで、チームアップが課題になっていました。まだまだAIエンジニアやデータサイエンティストと呼ばれる職能は日本では希少で自ずと世界にタレントを探しに行く必要が出てきます。
機械学習基盤を開発していた頃、並行してエンジニアやデザイナーなどクリエイティブ職能の採用を急きょ当時の採用責任者の代打で引き受けることとなり、この時会社としてもはじめてのグローバル採用を始めました。今では当たり前になっているアジアやインドをはじめ世界中の有名大学にリクルーティングに行くのも当時は肌感覚がなく、日本の企業に興味を持ってくれる優秀なグローバルタレントがこんなにもいるのかと驚きを感じざるを得ませんでした。最終的に、約20名の採用を達成し、グローバルで5名の採用が決まり、クリエイティブな思考と高い技術力で、同社のアワードを毎期獲得するほどの圧倒的な活躍をしてくれました。この原体験が、世界を見渡せば圧倒的な才能が多く存在し、ともに挑戦したいという思いを強くしたことは間違いありません。
同じ時期に、自分の可能性をさらに拡大したいという思いが強まり、HR以外の領域で自分の能力を試す場を求め、先に紹介したCOMPという食品・健康領域のスタートアップの創業期を支えたり、ブティックファームを経営する友人のクライアントや事業開発を引き受けたりと、2016年頃はいくつの役割やプロジェクトを並行していたかわからないほど自分の可能性の最大化に振り切っていました。
朝まで開いている喫茶店を探して、歌舞伎町のルノアールで仕事をし、新宿駅前の酸素カプセルで短い睡眠を取ってから、次の仕事に向かうという生活を続けたことで、振り返れば10年分ほどの経験を1年くらいに圧縮できたのではないかと。幸運にも体は壊しませんでしたが、おすすめはしません。
その後も領域によって自分の可能性を閉じないように、製薬会社と組んで半導体センサーを使った嗅覚デバイスの新規開発や暗号資産のカード型カストディアルウォレットの開発、巨大なBtoBメディアでデータ基盤の構築からデータ駆動な経営の意思決定を可能とするような組織改革まで様々なドメインと自分の能力を掛け算し続けていきました。
AIが、世界を変えると信じた日
34歳で大学院に入学し、Transformerを使った検索技術(Neural-IR)の研究をして卒業を控えていた頃、GPT-3.5が登場し、これまで見ていた世界の景色が一瞬で変わったことは忘れられません。
テキストデータを多く扱うビズリーチでは、従前から古典的なNLPの技術やBERTなどのTransformerモデルを使ったソリューションの研究開発を進めており、この新しいLLMの性能であれば実現したかった体験がつくれると直感したのです。寝る間も惜しんでプロトタイプを開発し、業界で最も早い時期に生成AIを使ったソリューションを立て続けにリリース。PRが強いことで知られるビズリーチで叩き込まれた精神で、市場の興奮がピークになる前に最速でリリースすることでドメインリーダーとしてポジションをつくれると感じ、東京大学との共同研究による生成AIを活用した機能の効果検証をセットで記者発表。複数の大手新聞やテレビキー局の注目を集めました。一方で以前から大規模言語モデルの投資競争を見ていて、モデルは必ずコモディティ化するという危機感があったため、ChatGPTが公開されるよりも1年以上前から生成AIを活用したアプリケーションのUI/UXやシステムについて特許を出願し、どれほど注目を浴びたとしても他社が同じ体験を簡単には真似できないようモートを構築したことが功を奏し、競合はかなり遅れを取っていました。在籍中に同社では最多となる20件近い特許を出願し、退職する直前から過去1年間においてビズリーチ社が生成AIに関する特許出願数が国内最多となり、私の発明に絞っても2位の企業上回っていたようです。
しかし、特許だけでは優位性を持続できないと考え、単純にLLMを使った体験ではなく、これまでサービスの歴史のなかで蓄積されてきたクローズドデータとマッチングデータを活用し、まだRAG (Retrieval-Augmented Generation) という言葉が一般的になる前から、オフラインでのデータ生成や検索技術を絡めた体験を作り上げたことで、使い物になるサービスを作れたことが、効果検証で既存の体験に対して圧倒的なパフォーマンスを築くことに繋がりました。
その後も、職務要件定義、求人作成、候補者のソーシング、ターゲット評価、スカウト作成と配信スケジューリング、などダイレクトリクルーティングプラットフォームにおけるあらゆるステップを自動化したいという一心でプロトタイプのアプリケーションを高速に開発し、世界的なメーカーなど日本を代表する企業での実証実験を進めていました。
しかし、LLMの進化が急激に進むなかで、画像や音声などの生成や認識、マルチエージェントなど他の領域も進化は止まらず、テキストデータを中心とした自然言語処理に領域を閉じず、自分の可能性を最大限に引き出したいとも考えるようになっていました。
さあ、踊ろう!
私たちが信念をもって取り組んでいることについて、ここではその目指す世界観をお話しします。
店舗経営を支える「世界的な」インフラを創る。カンリーのミッションは「世界」をスコープにしています。店舗経営における課題には、国や文化を超えて共通するものがあります。カンリーが世界的なインフラを目指している以上、この課題に徹底的に向き合わなければなりません。
リテールの本質は顧客へのサービスにあり、「人」が最も重要な経営資源です。働き手にとっては、一般的に雇用が安定せず、自分のリファレンスがないため仕事で得た経験や知識を次の仕事にキャリーできない、フェアな評価がされていないという問題がつきまといます。雇用する側は、多くの候補者の中から適切に採用するべき人を選ぶ必要がありますが、その難易度は高く時間と労力がかかります。
ハイクラスな労働市場では、マッチングプラットフォームやエージェンシーの存在があるためこの問題は解消されつつありますが、リテール業界では依然課題が残っており、これは労働需給の状況によらず世界中どの地域においても共通すると考えています。
データドリブンな人材のマッチングや、継続的なスキル開発とトレーニングを日本に最適化せず、はじめから地域によらない体験として作り上げたい。
今、このnoteをインドのバンガロールの市街地にあるコワーキングオフィスの屋上で書いています。
世界で最も人手が不足している日本と、豊富なインド、労働市場の力学は正反対です。しかし、実は本質的に共通している課題がある。今、私たちはこの課題に向き合って事業をつくっています。
インドに来るたび、移動にはUberを使っていますが、日本と同じアカウントでいつもと同じ体験ができています。国をまたいで人の流動化が加速する世界の中で、自分のアセットを、体験を国をまたいでキャリーできることは、支払いやタクシーがそうであるのと同様に、仕事だってそうあるべきです。
ローカルごとに存在するジョブボードではなく、世界中のリテールタレントが私たちをインフラとして生活する、そんな世界を描いています。 トヨタ自動車が掲げる「モノづくりは、人づくり」という思想は、同社の高い技術力にとどまらず、各国での人材育成を通じてその理念を実践していることを示しています。インドをはじめとする国々で、トヨタ自動車は技術教育やトレーニングプログラムを通じてトヨタイズムを広め、質の高い人材を育成し、世界を席巻しています。
独自に高度な進化を遂げている日本の店舗経営に最適化されたソリューションをつくっていては、世界的なインフラにはなりえません。
プロダクトは常に世界を標準としたインフラを設計し、文化として日本の店舗経営におけるノウハウやおもてなしを、環境の異なる世界の地域で競争力に変えていく。
私たちのような小さなスタートアップが、世界のインフラを作ろうとしている。
それはきっと、狂ったように、バカっぽく見えるかもしれないし、だれの相手にもされてないかもしれない。私にできることは、勇気を持ってカンリーに飛び込み、世界観に心から共感し、自らの未来に信念を持つこと。そしてチームの皆とともに踊り、最高の仲間を巻き込むこと。
さあ、踊ろう!
最後に
下記のようなイベントも企画していますので、ご興味をお持ちいただけましたら、是非直接お話させて頂きたいと思っています。
また、これからさらなる飛躍を目指し、一緒にエンジニア組織を盛り上げていってくれるメンバーを大募集中です!
もちろんエンジニア職以外にも広く募集しています!
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