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大地に響く足の音

8月も終わりに近づいてきましたね。季節は処暑。暑さがおさまりつつ時期。真夏のような太陽ギラギラさが和らぎ、蝉の声も小さくなり、秋の虫たちが鳴き始めてますね。夜の静けさの中に響く虫の声は蝉に比べると
小さいですが、音はしっかりしていて、力強さを感じる今日この頃。

この夏、お洗濯ものに鳥のフンなるものが・・・( ゚Д゚)
「いつのまに~!また、洗濯やん・・・。」しかも、タオルなど干した時は
しない。シーツやふとんカバー、着物の襦袢など干した時におとされる。
「え?してほしくないものになんで、落とすの?嫌がらせ?」って感じる。
これは人間視点。鳥の視点からするとしたいときに落とす。鳥や動物、虫などは「ここからあそこまで俺んち。勝手にはいるなよ」のようにものを所有する概念がなく、行きたいところに行き、歩きたい道を歩く。自由自在になにも捉われることなく生きている。同じように古代の地球上でも国境がなく、陸や海を自由自在に移動していた。だからこそ、世界各地に日本と似ている生活様式や模様や神話、遺跡などが残っている。海と陸使えばすべては繋がるから似ていてもなんら不思議ではない。
現代の私たちは「海」と「陸」と「空」を始め、色んなこと・ものを分けてみる傾向がある。「左脳」の領域と呼ばれている。私と他人、善と悪、日本と外国などカテゴライズされて、管理や統治しやすいようになっている。
「私」という「個人」に分けてみるとできる・できない、などに分けて、自分を責めたり、疑ったり、追い込んだり自分を窮屈な方向に追いやっている。しんどいひと、疲れている人が多く感じます。
日本は豊かな国。水や電気、ガスは普通にある。教育も小学校から義務化され、学ぶことができる。食べ物も食べれて、しっかりしたお家もある。風邪を引けば病院に行って、薬がもらえる。平和で道や道路も綺麗。衛生的にも整備されている。保険制度があり、病院行っても高額な金額を払うことはない。基本的に、日本人は幸せや安心のために働いてお給料をちゃんともらっている。食べれて、光熱費払って、洋服買える。飢えで道に転がっている人もいないし、裸の子もいない。子供を学校を行かせずに働いて生計立てることも基本的にはあまりいない。諸外国から見ると、すごい国なのに、
幸せと感じてる国民は少なくて、自ら命を絶つ人が年々増えている。
「幸せや安心のために働いてお給料もらって、夢叶えているよ。どこが幸せじゃないの?食費や光熱費など支払って手元に残らないから?」
そうだよね。追いかけているんだもん。幸せや安心は追いかければ追いかけるほど遠くなるよ。お金やものに依存していると失う恐怖や不安が出てきて、さらに追いかける。今の経済は今の経済、今の日本は今の日本であって、未来がそのまま同じとは限らない。社会の仕組みや教育、会社の在り方などがこれからどんどん変わっていく。昭和のままできたルールや仕組みはたぶん、変わっていくようになると感じる。どこかの記事で今はまだ「昭和99年」。令和なのに「昭和」を引きずっていて、昭和のまんまという意味で書かれていて、なるほどな~。たしかにそうだよね。
でも、変化って怖いよね。脳みそは新しいことが嫌い。新しいことは安全かどうかわからないから。生き残る為に脳みそはフル回転するんだから安全がわからないことは「大丈夫?この先行っていいの?」って「左脳」が不安な言葉を発する。これは脳の正常な反応であって、「だめ」な反応ではない。新しいことしたり、やってない仕事任されたり、違う環境になじめないなどは脳の普通の反応であって、臆病でもどんくさい自分でも怖がりで引っ込み思案でネガティブでもなんでもない。自分を卑下することも価値がないと思うことや出来の悪い私と思うこともなく、脳みそが私のことを危険から身を守ってくれている。脳みそが私に対する愛なのです。
この脳みその深い愛が失う不安というカタチになっている。こうみると、体に意識を向けると、おなか痛い。口内炎ができる。肩が痛い。もすべて、愛のサイン。痛いというサインを送って、「これ以上やめてくれ~」って私の内臓を守ってくれている。「痛いから早くなくならん?」って私は痛みを排除するほうに考えを巡らせる。サイン送っている内臓は拗ねるよね。「はぁ??せっかくサイン出して気づいてもらおうとしているのに、なくすってどういうこと??」ってさらに痛みが増して、口内炎増えるねん・・・(゚д゚)!
日常でよくあるあるで、「なんで、ここ痛いん?何かした?普通に生活してたで」ってあたまで分かっていてもしょっちゅう言ってます。いつになったら、「お~!この痛みのサインは内臓ちゃんの愛なんやな~。教えてくれて嬉しいわ~」って感じられることになるかな。

幸せって追いかけるものでもなくて、すでに自分の手の中にある。
自分という存在から湧き上がってくる歓びでこころが満ちていること。
例えば、花見て、風が吹いて、朝目が覚めるだけで感じるこころ。
わたしという肉体を通して経験や体験することで感じるこころが
わたしの中に溜まっていき、「わたし」という「足の音」を響かせることができる。
感じることは「生きている」からこそできる経験。そして「わたしだけのもの」誰一人、同じはない。

自分の「足の音」を力強く地球に響かせる人が増えていきますように。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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