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「私は殺さない」

「幸せそうな、できれば女なら、誰でも良かった」

動機をそう述べた犯人は電車の中で刃物を振り回し複数の人に重軽傷を負わせ、未遂には終わったものの、明確な意思を持って逃げられない環境で油を撒いて火をつけようとした。

毎日オリンピックかコロナのことしか流れてこない緊急事態な日常の中で起こったその事件は、ネット上でも様々な物議を醸している。


私が書くのは

センシティブな内容に触れる書き物が多いのに、私のものを書くスタンスのようなものに触れていなかったので、この機会に書こうと思う。

現実の私は少し接しただけではこんな文章を書くような人間だとは思われないという自信がある。ポジティブは瞬間的に消化し、ネガティブは言語化しなければ消化できない人間なのだ。幸い、昨今の私の周りにはネガティブよりもポジティブの方が溢れている。

だから私は、自分の意思で生きたい時には何も書けなくて、死にたい時や惰性で生きている中で何かに強く刺激された時にしか自発的な文章が書けない。

とはいえ書くこと自体が嫌いなわけではないので、何かしらのテーマを与えられたり、他人から依頼されたりすればいくらでも書ける。ただ、私はあまりそれを好まない。

テーマがあるということは、それに対する私という人間の考えが求められているからだ。

キャッチボールができない中で、自分の考えのみを押し付けることは何も話さないことよりも怖いことだと思う。相手にとっても、自分にとっても。

受け手に解釈が委ねられる状態で主観をどれだけ綺麗に言語化しても、それは基本的に一方通行で、真意が100%伝わることなんてまず無い。感情論だった場合は50%でも難しいと思う。加えて、私が何か頼まれて文章に書けるようなことは、もうすでに私の中では整理されて結論が出ているものが多い。もちろん他人の意見を踏まえてそれがアップデートされていくことはあるだろうが、少なくとも、お互いを知る材料が限りなく制限された状態で投げられる、通りすがりの意見で何かが変わることはまずありえない。

主観として言語化できるほど固まっている思考は全て私の24年間の人生に紐づいているからそうなるのだけど、何か私の意図しない意見が出たとしても、私の24年間に興味を持ち、かつ、私が私の価値観を細かくを話すことを許せる人であるという二つの条件が成り立たなければ、それに対して応答する機会は巡ってこないのだ。

主張の裏付けとなる自分のバックグラウンドを、テキストのみで他人に理解してもらうことは、ある程度信頼関係のある生身の人間同士であっても難しい。というのが私の持論である。

つまり、変な話に聞こえるかもしれないが、私が書くあらゆる負の感情の全て、また、私が苦しむ事象の全ては、「言語化するために言語化している」のである。他人から言われて嫌だったことや、こうしてnoteにまとめる全てのことは、私が私の中で自信が持てないから外に出している。おそらく普通は自信のあるものを人の目に触れる場所に出していくのだろうから、私のこの一方通行の全ては、側から見たら自信があるようにとられるのかもしれないけれど。

幸せそうな女と不幸な男

話は冒頭の小田急線切り付け事件に戻る。
この事件が起こった日、私はどうしようもなく死にたいと思う出来事があった。気にしなければいい、という言葉にさえ傷ついてしまうくらい、今も感情が迷子になっている。きっとそれは自信の無さからきているんだろうし、私が今の私を肯定できないあらゆるものと繋がってしまって、もうどうにもならないと思ったからとりあえず薬を飲んで寝た。

「幸せそうな女」

犯人が刺す対象と決めていた相手に、私は含まれるのだろうか。切羽詰まっている時や追い込まれている時、なぜかどうでもいいことを考えてしまう。その夜も、寝落ちするまでそんな感じだった。

たぶん私はそれに該当してしまうんだろうな、と思った。

幸せそうな女、なんて、何をもって定義するんだ。幸せそうに見える人間がみんな疎ましいなんて、想像力の欠如にも程がある。男尊女卑だの女尊男卑だの言うけれど、どっちがどっちであれ人を殺していい理由にはならんだろ。てかサラダ油撒いて火が付くと思ったん?など、私が女性である以上犯人に同情の余地はないし、切りつけられて重傷を負った女子大生の今後を考えると心が痛む。実際に幸せだったかそうじゃなかったかなんてどうでもいいけど、知らない人に体に傷をつけられたという事実が他人には想像もつかないほど本人や周りにあらゆる衝撃をもたらしているだろうから。

幸せそうな女を殺したのは、不幸な男だったのか。

他人について推測することほど野暮なことはないけれど、きっと不幸だったんだろうなと思うし、その不幸から脱するための方法が他人を傷付けることしか無かったんだとしたら、ああ、追い込まれていたんだなと、同情はしないが想像はできる。

自分を不幸だと強く感じてしまう人間の行き着く先は、自分を傷つけるか他人を傷つけるか、はたまたその両者を傷つけるか、必ずその何処かに行き着いてしまう気がする。

そして悲しいことに、そういった本当に誰かの助けが無ければ自分を救いあげることのできない人間の多くは、周りの人間から面倒臭がられたり、すでに周りに人がいなかったりする。

柔らかに

みんな自分のことでいっぱいいっぱいなのだ。

キャパがないというわけではなく、なるべく面倒なことは避けて生きたいし、他人の人生に巻き込まれ続けるようなお人好しは、よほど使命感が強いか承認欲求が強いか、はたまた断れないか、大体この3者のどれかだと思う。異論は認める。

世間は優しい人をここぞとばかりに持ち上げ、マスコミは優しさで感動を創作する。だからみんな、優しさという正義を信じてある程度優しいつもりになっているけど、どこかでちゃんと線を引いている。会ったこともない人間が目の前で電車に飛び込んだとして、心を痛めることはあっても自分のせいだとは思わないのと同じである。

全ての物事を自分ごととして捉えることはとても素晴らしいことだけれど、そうすることで結果的に心が負荷に耐えきれなくなって、自分と、自分の周りの大切な人を傷付けてしまったり苦しめてしまったりする。本当は誰にも迷惑をかけたくないし、誰のことも傷付けたくないはずなのに。

優しさは1番柔らかくて1番殺傷能力の高い武器になり得てしまうのだ。優しさをどこかで切り離した時、相手が暴走してしまったら。私はそんな光景をもう二度と見たくない。

サラダ油には火がつかないということさえ知らず刃物を握りしめて電車に乗った犯人の周りには、殺意を覚えるほど疎ましくて羨ましかった幸せそうな日常を一瞬でも提供してくれる人がいなかったのだろうか。

社会全体で支えていくべきだったとか
誰かが助けてあげられればとか
そういうことは思わない。社会は弱者のためだけにあるわけではないのだから。

でもこういうことが起こるたびに、世の中の多くの人が他人事、もしくは被害者サイドに思いを馳せていることが不思議でならない。いや、間違ってはいないし、被害者に対してやるせなさやかわいそうだという感情を持つことは極めて自然なことだ。だけど、より多くの人がなり得てしまう可能性があるのは、被害者ではなく加害者なのではないだろうか。

当たり前が当たり前に続く、明日も自分が人を殺そうと思わずに生きていける、と、なぜ思えるのだろうか。

どの立場に立った時自分が人殺しになってしまうのか、私は今でも分からないのである。きっとみんな思っているはずだ。

「私は殺さない」と。

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