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ほんとのはなし

なんでも、目に見えてしまう。知らなくて良かったはずの誰かの日常も、知りたくなかったあの人のいじわるも、手の中にすっぽり収まる画面の奥に、世界は広がる。これは本当に「本当」なのだろうか。

買い物を済ませレジに並ぶ。金額が表示された画面はアクリル板が邪魔をしてよく見えない。透明なバリアの奥にいる店員は、早くしろよとでも思っているのだろうか。トレイに乗せられた小銭を財布に移しながら見た店員の顔は、マスクで覆われて表情がよく分からなかった。当たり前じゃなかったことは簡単に当たり前になり、失礼だったはずのことはマナーになった。少し息が切れる寒空の下で口元を出しながら歩く私の横を、犬を連れたおじさんが怪訝な顔で通り過ぎる。顎の下にずらしたマスクを、私はそっと口元に戻した。

電車に乗る人々は誰も顔を上げない。誰かと目があったら嫌だなとか、キョロキョロしている自分を見られたくないとか、手持ち無沙汰な目線の先には小さな液晶画面がチラついている。誰かと連絡をとっているのか、何かを読んでいるのか、どこかを探しているのか。手のひらに収まる世界は、私たちの居どころを提供してくれている。隣に座っているたった数センチの人との距離よりも、画面を介して何キロも先にいる人との距離の方が、心なしか近く感じてしまうのは当たり前なのかもしれない。電車を降りた頃にはもう、目の前にどんな人が立っていたかなんて分からないのだから。

人は小さな液晶を通して、誰が何をして、どういうことを考えて、その人がどういう人間であるかさえ知ったような気になっている。たとえその人ともう何年も会っていなかったとしても、スマートフォンの奥にはいつもたくさんの日常が溢れている。その破片を組み合わせて出来た画面の奥の「本物」を頼りに、人と人は繋がっている。キラキラしたSNSの中身がすべて本物なわけじゃない。誰かがより良く見せようと作られたものであることも知っているはずなのに、それらは私たちの目の前にあるものよりもずっと、私たちの心を刺激する。

私は楽しそうだろうか。私は独りじゃないだろうか。私は、生きているのだろうか。ブランディングや自己プロデュースなんて言葉が溢れ返り、インフルエンサーという人間が登場し、"私は私"であることが許されていただけの世界で、"私は私"でなければいけなくなっている。それを強いているのは他の誰でもなく自分自身で、多くの若者がその強迫とともに画面の奥を見続ける世界にふと狂気さえ感じてしまう。

誰も彼もが画面の奥に必死に「本物」を作る世界で、自分自身が分からなくなることがある。日常で出会うアクリル板の奥の人も、街中ですれ違う人も、電車で隣に座っていたあの人も、間違いなくそこに存在する本物で、彼らから見たら私だって本物なのに、私はそれをひとつも覚えていないしきっと彼らも私を見ていない。画面の奥の世界を見ている。画面の奥の人間に映る自分を「本物」にするために生きているような気さえする。

移り変わる時代は、"あり得ない"を突然何食わぬ顔で私たちに突きつける。親世代から見たらあり得ないことも、私たちの中では当たり前だったり、私たちの中での当たり前はもしかしたらもう当たり前じゃないのかもしれない。スマートフォンの奥から見つけ出す「本物」は、誰かを幸せにしているのだろうか。何が本物か分からない時代を生き抜く私たちが大事にしなければいけないのは、「本物」であることではなく、自分にとっての「本当」を探し出すことなのかもしれない。

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