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(26歳女性・独身)

26年目を生き始めた私は今、誰もが通る道のど真ん中にいるような気がしている。

人生に起こるなんらかのトラブルには2つの種類がある。「突然現れる巨大な壁or崖」と「誰もがヌルッと通らなければいけない道」、私は今たぶんその後者のど真ん中にいる。

なんともはっきりしないのは、私が恵まれているからだ。金銭的にも環境的にも、困っている要因は明確ではないし、本当に、みんなが歩く道をなんなら少し早足くらいで歩けている。

では何がトラブルで、何が私を悩ませるのか、いや、もしかしたら悩んでさえいないのかもしれないが、きっとこういう時に一度立ち止まって整理をするべきなのだと思い、寝れない夜にスマホを開いた。

こういうこともまた、誰もが通る道なのかもしれない。


私が若い頃は、

「誰もが通る道」系人生のトラブルの中でも、20代半ばの人間がほぼほぼ通るであろう道、それが『私、このままでいいのかな?』である。

仕事にも慣れ始め、人間関係もできてくる、人によっては上下関係の上に立ち始める人もいる、転職の最盛期もこの20代半ばだろう。30歳に向けて結婚や出産、インスタグラムに並ぶ景色も本格的に「大人」へと移り変わっていく。若いことを言い訳に許されてきた不安定さも、だんだんと許されなくなってきた。

漠然とした焦り、漠然とした不安、何かに取り残されているような緊張、まさに、まさにである。まさに誰もが通る20代半ばを私は今歩いている。

そして言われる。

「若いね〜」

誰もが通る道というのは、下手すりゃ突然降りかかる系災難よりも通り抜けるのに時間がかかってしまう。おそらくその1番大きな原因が、この「若いね〜」をぶん投げてくる"誰もが通ってきた道をすでにその道を通り終わった人たち"だ。

いや、分かる。気持ちは本当に分かる。
そりゃ時間が経てばこんなこと悩んでたって仕方がないと思える日はくるんだろう。そう思える日を迎えた人たちからしたら、そんなことで悩めるなんて若いね、の一言で完結してしまうか、「私の若い頃は〜」のありがたいお言葉コースの2つにひとつになってしまうことはやむを得ない。

ただそういうふうに軽くあしらわれやすいポイントの割には、ここでの決断が後の人生を大きく決めていることもしばしばあることをほとんどの大人が証明している。さらにその多くが「今あなたくらいに戻れるなら〜」と何かしらの後悔を抱えているのである。

ということで、そこまで含めて誰もが通る道なのだとしたら、なんとなくをなんとなくにしてしまってはいけないのではないか、という達観した焦りを生意気にも抱えているのである。

「別に何者かになりたいわけでもないし、私は私で良いからこのまんまでもいいか〜」

と諦めようとする自分が、何者にもなれないどころか私でさえもなくなってしまう気がして。

そこまで含めて、"若さ故の"最後の悩みどころで足踏みをしている。


なぜここへ

さて、私の仕事はというと、紆余曲折ありながらも友人や家族から見たら5段階評価の4〜5が貰えるくらいのものだと思う。いわゆるホワイト企業(仮)で、考え方は違っても話ができる良い上司に恵まれ、頼りになる同僚がいて、自分の仕事もそれなりに評価をされていると感じることができ、社会的にもそんなに評判は悪くない。お給料も、私の生活水準で足りないと思ったことはない。

ここまでもダラダラ書いているが、私は基本的に満たされているし恵まれているし自分の悩みがありきたりであることを理解している。

ではなぜ、と思った時にふと私が弊社(弊界隈)に足を突っ込んでみようと思ったきっかけを思い出した。

私は特に英語が得意なわけでも留学をしてたわけでもないのに、留学してた人が集まる団体でイベントを企画していた。そこでは、毎回ざっくり30ヵ国〜50ヵ国から日本に来た留学生と関わることになるのだが、関わっているうちに圧倒的な敗北を感じることになる。

どんなにやる気のない、語学への意欲もコミュニケーションへのいよくもない子でも、自分の国について自分の言葉で語れるのである。

立場としては私たちが彼らに何かを教える側にあったはずなのに、年に数回あるイベントに参加するたびに、教えられることの方が多かったような気がする。

そんなこんなで、私も日本のことをもっと知った方がいいんだろうな。と思い、国際交流を通じてむしろ日本に興味を持つことになった。とはいっても勉強が得意なわけでもなければ、歴史にハマるタイプでもなかったので「あー、知った方がいいんだろうな〜」くらいに思っていた。

縁というのは不思議なもので、特に就活に困ることもなく呑気に生活をしていた時に突然、新たな選択肢が提示されたのは大学3年生の終わり頃だっただろうか。急転直下とはこのこと、私は政治を(なんとなくヌルッと極めて受動的に)学ぶことになった。

弊界隈は、有象無象が蠢く政治界隈である。

結果を出すということ

言い方は大袈裟だが、私はどんなに小さなことでも理由が無ければ決断できない。その上せっかちなので、決断を急いで判断を誤る(理由があるので自分ではあまり誤りだと思えない)、みたいな厄介な頑固者だ。自分が明確に「これが良い」「こうしたい」と思ってることが上手くいかないととても悩んでしまう。

先に結論というか、この話のオチを述べてしまうと私が今こんなに足踏みをしているのは「焦り」なのだと思う。足踏みをしながら焦っているのは矛盾しているように聞こえるが、そういうことなのである。

これまでの私の目的は、詰まるところ「知らないことを知る」という単純な知的好奇心だったのだ。私がこんなにモヤモヤしているということは、おそらくそれはすでにある程度満たされて次のフェーズに進んだからなのだと思う。これを「成長」というのなら、きっとそれはそうなのであろう。

完全ではないものの目的が達成された今、私の次の目的は「自分で決めること」に変わっているように感じる。

「言い訳をする前に行動する」というのは組織で生きる上でとてもリスクが高い。何でもかんでも行動しろ!みたいに言う人は、成功しているからそう言うのであって、その裏ではその何倍もの人がきっと大失敗をしている。失敗をすることは悪いことではない。でも、失敗をして取り返しがつかなくなるのであればそれは元も子もなくなってしまう。そのリスクがある限り、組織というものはいつも慎重だ。

STOPとGOを決めるのはいつも「偉い人たち」であり、今の私にはまだその権利はない。そして悔しいが今の私にはまだそこに至る力が無い。

「悔しさは最大のアクセル」だと教えてくれた人がいる。

ああ足りないな、及ばないな、と思う時いつもこの言葉を思い出すのだが、私に足りないのはきっとブレーキの方で、誰かを守るためのブレーキを身につけられた時やっと、私にとっての結果が出るんだろうなあと、漠然と確信しているのだ。


誰もが通る道をきっと

私はきっと、この誰もが通る道を誰もが通り抜けるように通り抜けていくんだろうなと思う。20年後くらいには同じ歳の子に「若いね〜」とか言っちゃったりして。

だから書いておこうと思ったのだ。
誰もが通る、誰もが忘れるこの道のことを。

道の終わりは、きっともうすぐ。

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