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【十七音に大きな世界を収めるコツ】俳句的を読んで(1章-5のまとめ)

 引き続き、「思考の整理学」の著者、外山滋比古先生の「俳句的」のまとめである。今回は1章5項「冷え」についてのまとめである。長くなってしまったので、気になる見出しだけでも読んでもらえあたら幸いである。

・子供は天性の詩人なのか(P26-27)

 子供の心には、人間もイヌもネコも山や川も相手としてあまり違うところがない。とにかく呼びかけることのできる相手であると思っている。自と他の境目がはっきりしていなくて、人間の感情が無生物の中へ自由へ流れ込んでそれを擬人化してしまう。

中略

(このような)子供の時の「詩」を天性の詩人の作品と考えるのは少し無理である。自然のすべてが歌っているというのでは芸術とはならない。選択と人工の加わる必要がある。どれほど純粋な感情であっても、それを手放しに吐露しただけでは芸術ではない。この意味での自然主義をはき違えるから、志士の文学やプロパガンダの芸術が、当事者たちの意図がどうであろうと、芸術として高い価値と永い生命をもちにくいことになる。つまり子供的なのである。

・優れた詩は、伝統の感覚とやかましい精神が両立する(P27)

 二十五歳を過ぎてなお詩人であり続けるためには、伝統の感覚を身につけておかなければならない。あるヨーロッパの詩人がそういったのは有名であるが、年老いてなお詩人であり続けるためには、詩をやかましい精神と両立させることに成功しなくてはならない。 東洋の詩歌が長寿であるのは、それが東洋ではある程度解決していることを暗示する。他方、西洋の近代詩が常に青春の文芸であるのは、やかましい心の介入とともに詩が消滅することを物語っているように思われる。いい意味でもわるい意味でも子供的なのである。

・俳句は客観移入の詩(P28)

 (芸術には二つの相反する作用、感情移入と抽象作用がある。感情移入の芸術では作者の感情が強く対象に流入する。他方、抽象芸術はそういう主体の積極的、具体的な表現を抑えて別種の美に達することを目指す。感情移入はルネッサンス以降のギリシャ的芸術。抽象作用は東洋やエジプトの幾何学的芸術によくみられる。このことを踏まえて)

 しかし、俳句における作者と自然、対象との関係を考えてみると、感情移入と抽象作用のどちらでも説明し切れない重要なはたらきがあるように思われてくる。どちらかと言えば、感情移入よりは抽象作用の方が俳句の原理に近いのであろうが、なお、俳句の核心をえぐるには抽象のみでは充分でないように感じられる。

中略

 居は気を移す、と言う。環境を変えると人間の心の中まで微妙に変化するのは、転地が単に医学的に効果をもつだけでなく、しばしば心理的な回復作用を持つことによっても察せられる。心が自然に働きかけるのと同じように、いな、それよりもずっと隠微でありながら、持続的に、したがってより深刻な影響を周囲の万象がわれわれの心に及ぼしているのである。感情が外界に移入するのではなく、客観がわれわれの心の中に移入する客観移入である。外界が何とかしてわれわれの心に印象を与えようとしてわれわれの周りにひしめいている。その中から適当なものを選んで心にしみ入ることを許す。こうして生まれる詩が客観移入の詩歌であり、俳句はその典型だということができる。人間の心を動かせて詠むのではない。対象の方が動いて詩人の心の中に入って詩となる。そこで小手先の技巧などを弄すればどうなるかは言わなくてもはっきりしている。

・客観的相関物と情緒からの逃避(P30)

 ヨーロッパにも感情移入に懐疑的な考え方をする詩人がないわけではない。例えば、 T・ S・ エリオット。彼の”客観的相関物”(オブジェクティブ・コレラティブ)の説のごときもその一つとしてよかろう。エリオットは情緒はそのまま表現できないから、読者に同じ情緒を喚起するであろう客観的相関者を見出す他に方法がないとのべた。

中略

 エリオットはまた”情緒からの逃避”ということをのべてはなはだ有名である。自分の感情などを手軽に出してはいけない。むしろ、個性を抑えて、外にあるものの自由な結合を促進するのが詩人の務めなのだという逆説で、詩人たちにに大きな影響力を持った。

・消極的でいられる能力(P31)

(一般にはロマンティックな詩人と見られているキーツが、やはり感情移入を否定する考えを持っていたらしいことに触れて)

 キーツは”消極的でいられる能力”(ネガティブ・ケイパビリティ)いう言葉でそれ(詩における感情移入の否定)を要約しているが、つまり小さな自我をすてて、ゆったりと四囲のあるがままを受け入れ、不確実や矛盾があってもこれを無理に合理化したりしないでいられる性質ーこれが詩人に偉大な創造を可能にする秘密だと考えた。

・十七音に大きな世界を収めるコツ(P32)

 近代文学は感情移入を中心に進んできたために、市民的主観的であることが独創と結びつき高く評価されている。しかし、人間を中心と考えない(東洋的な)詩観からすれば、おもしろいものの方から心によびかけてくる客観移入が詩の原理として脚光を浴びることになる。生まれるのは神話的古典的性格の強いものになるであろう。ここに自己否定が潜在する。すくなくとも小さくこり固まった自己は否定される。そうでなくては短詩型の中に大きな世界を収めることはできない。

・花鳥風月=冷え(P33)

(自然への手がかりが様式として定まっている季語を客観移入だけでなく、感情移入の足掛かりにすることができる。現にそのような俳句が多くあることを指摘しつつ、述べる)

 俳句が真に俳句らしい芸術たりうるのは、自然が詩人の心に入ってくる、そして作品に表現された自然が読者の心に侵入してくるという”消極的でいられる能力”にしっかり裏付けされた十七音であるときである。感情移入は熱き情緒が対象へもち込まれ、対象まで熱っぽくしないではやまないが、客観移入は、自然が冷たく心の中へ侵入してくる。さわやかに冷え冷えとしている。心理の層ですぐになま温かくなってしまうようなものは、そこで深化を止めてしまうであろう。いつまでも冷えを失わないのは、いつまでも心の奥深くに進んでいくことができる。花鳥風月はもっとも心の深い所にまで達することのできる、”客観的相関物”であるということを発見したとき、俳句は感情を詠むものではなくて、客観を移入させる詩である様式を確立したと考えられる。そういう詩学が稀有であることは、世界の短詩型文学の貧しさを見ても首肯されるであろう。

・ちょこっと解説

①何か恨みがあるのかというほど、外山先生の西洋の短詩に対する攻撃が凄まじい。読んでいるこちらがハラハラするほどである。が、面白かった。

②俳句が冷めているという点では、どちらかというと詩学や宗教などの人間中心的な考え方をするジャンルより、物理学や数学などの自然科学のジャンルに親和性が高いように思われる。

③温かい食事はその場では美味しいが、傷みやすい。つまり長持ちしないのである。長期保存するためには、冷やしたり凍らせたりするように、文芸においても長持ちする名作というのは、もしかしたら皆どこか冷えているのかもしれない。

・「俳句的」過去のまとめ記事


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