見出し画像

【ストレートな表現が日本語に適さないわけ】俳句的を読んで(1章-3のまとめ)

引き続き、外山滋比古著「俳句的」のまとめである。今回は1章3項の「名実を忌む」についてまとめていきたい。

前回までの記事については下記をご参照いただけたらと思う。


参考文献

・日本人の名前が読みにくいわけ(P16)

すこし日本語を覚えた外国人が、日本人の名前が読めなくて困るという。当たり前のことだ。読めないようにしてある?とも言える。かけ出しの日本語知識などで読もうとするのが、そもそもの了見違いだ。日本人にだって見れども音には発せられないようになっている。漢字の名前とはそういうものである。かって女性の名前が仮名になっていたのは、呼ばれることを予期している点で、漢字の男の名とは性格を異にする。

・日本人はものを直視することを好まず、物に思いを託す(P17)

(文章を綴る時に、個人的に関わり関わりが固有名詞がでると、筆が進みにくくなったり、ぎこちなくなったりすることを例に挙げ)

 人間関係にこだわるものが、われわれの心にあるのであろうか。そういうものをなだめるために、敬語というような語法を発達させなければならなかったのかもしれない。そして、我々はゴシップならこのけれども本当に他人の生き方に関心を持っているかとなると少し怪しい。

(中略)

 (われわれは)人間を直視することが好きではない。ものを正面からあからさまに視ることを喜ばない。
 自分の感情を生のまま表現するのは趣味のよいこととは考えられないのは、こう考えてくるとごく自然なこととして受け容れられる。同じ気持ちを表しているものが他にあるはずもないような、激しい感情を抱いている場合ですら、あえて、古人のことばや詩歌を引いて、それに心を託す。それは教養ある人のたしなみとされた。

・日本語に人称代名詞が多く、直接的な感情を表現することが好まれないわけ(P18)

 われわれには人の名前をじかに呼ぶことについての禁忌がある。表示形式としても、人称代名詞が多様であって、微妙に変化する。しかも、なるべくならば、第一人称、第二人称は形に出して使いたくないという気持ちの人が少なくない。このごろ、人称代名詞や相手への呼称の使用が多くなってきたのは、語感の変化を示しているように思われる。人の名を忌む心がある以上、気持ちについて同じような抑制がはたらくと考えてよい。淋しい、哀しいといった感情を生の形で表白することをさけて、その気持ちを誘う自然物をとって、これに心を託す方法がとられる。東洋の詩学ではごくごく古い時代から、客観的相関物によって、欲する情緒を呼び起こすということをしてきたのだ。

・ちょこっと解説

・客観的相関物によって、欲する情緒を呼び起こすという手法は、まさしく高浜虚子が提唱した花鳥諷詠、写生句に通じるものである。

・基本はやはり写生句なのだろう。初学の頃は、俳句の輪郭をつかむために写生句に徹したい。ただそれだけではだめだ。レベルアップのために「写生句+何」かという形を、俳人はそれぞれ追っていかなければならない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!楽しんでいただけたら幸いです。また、小生の記事は全て投げ銭形式になっています。お気に入り記事がありましたら、是非よろしくお願いします。サポートやスキも、とても励みになります。応援よろしくお願いいたします!