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【詩人必読の章 短詩型文学が二流芸術であるとの主張への反論】俳句的を読んで(1章-2のまとめ)

引き続き、外山滋比古著「俳句的」のまとめである。今回は1章2項の「封建的」についてまとめていきたい。

この本の中で、一、二を争う面白い章であったため、まとめがずいぶん長くなったがご容赦願いたい。

前項の記事については下記をご参照いただけたらと思う。

参考資料

・伝記中心の批評から作品中心の批評へ(P7)

(批評は詩人を論じるのではなく、作品を問題にしなければならないと主張したT.S.エリオットに触れて)

 いまでは当然のことになっている作品中心の考えが、欧米においても、まだ半世紀とちょっと(注、2021年現在からは80~90年前)しか経っていないというのを、いくらか意外と思う人もあろう。エリオットのような考えがアメリカへ渡って”新批評(ニュークリティシズム)”を興す。新批評家たちは勢いあまって、作品の批評、鑑賞には作者の伝記は不要である、と断言してはばからなかった。それは反動の行き過ぎというものであったが、伝記中心の批評から作品中心の批評への脱皮には、これくらいの荒治療が必要であったのかもしれない。

・近代文学は経済原理に支配され、文壇からは自由であり得ない(P8)

 近代文学は経済原理に支配されている。いかに芸術至上主義的なことを言っている作家でも、自分の作品の市場価値に全く無関心ではあり得ない。文筆に生活がかかっているプロならばなおさらである。
 ”文壇”というのはその権益を守るための連邦共和国のようなものである。その中にいくつもの小領土が割拠している。めいめいの属する”藩”の中には、外部には通用しにくい特別なルールがある。外部からそれを批判することは、内政干渉と反発されない。タブーである。

中略

 (故に)文壇は閉鎖社会である。しかし、批評がある、というかもしれないが、批評家もまた文壇に属しているから、その磁場の力学から自由ではあり得ない。近代文学はそういった宿命を背負っている。

・詩の方が小説よりも芸術的である(P9)

(近代化に成功し、小説家は小説を売ることで生計を立てられるようになった。しかし、詩人は詩で食っていけない状態が続いた。いわば近代化に乗り遅れたのである。そのことを指摘した上で)

 新しい批評が、作者から離れて作品を考えよ、と言ったとき、当然、詩を念頭においていた。小説はいえば相手にされなかったのである。詩の方が小説よりも芸術的である、というのはヨーロッパ文学の常識で、新批評もその常識を再確認したにすぎない。

・俳句第二芸術論への反論(P10~12)

(1929年ケンブリッジ大のリチャーズは生徒に、作者名が伏せられた詩文をいくつか読ませ、意見を求めた。結果は作者名が明らかであれば決して書かれないような意見が多かった。このことは「実践批評(プラクティカル・クリティシズム)として、伝記中心から作品中心への論拠として世界に広まった。俳句第二芸術論は、この理論を戦後、日本の俳句にあてはめ、近代文学(近代芸術)として、俳句は二流であると主張された俳句史上の一大事件である。そのことを踏まえた上で)

 第二芸術論は、封建的芸術の崩壊しようとしていた欧米風の批評観によって、なお堅固な封建的体制を誇っている短詩型文学を切ったのである。文学連邦共和国(=文壇)に賛同した人の目からすると、俳句はいかにも薄ぎたない藩別割拠のように見えたのであろう。第二芸術論に共鳴した人たちは興奮のあまり封建的な俳句を弁護できるところは全くないように誤解した。
 俳句の特殊性のひとつは、作者と読者は未分化だという点である。何がなんでも分化した方が発達しているのだとは言えない。作者が同時に読者であるのは、芸術の原初的状況であり、近代のように諸現象が分裂四散に苦しんでいるところにおいては、むしろに理想ですらある。この作読一如が可能であるには、一定の「共通性」(コンテクスト)が条件になる。

中略

 このコンテクストが心理的に表されているのが”座”であり、社会的な形をとってるのが”結社”である。俳句が俳句らしさを失わないためには、強固なコンテクストの成立は不可欠である。
 言語の表現が洗練、昇華するには、心理的にも社会的にもしっかりしたコンテクストに包まれている必要がある。野暮天がいつ迷い込んでくるかわからないようでは、通人の表現は生まれない。コンテクストは裏返せば閉鎖性ということになる洗練された省略的表現と閉鎖性とは表裏の関係にある。俳句はそういう閉鎖性を少しも恥じることはない 。

・詩の翻訳が難しい理由(P13)

(俳句が閉鎖的・緊密なコンテクスト(=共通性)を必要とするのであれば、その正反対にあるのが「数学」である。論理以外のすべてのコンテクストを捨て、特別なコンテクストを持たないが故に、世界中どこでも理解され通用する。そのことを指摘した上で)

 日常用いている言語は数学に比べるとはるかに狭いコンテクストに包まれている。日本語はヨーロッパ人にはわからない。同じ日本語でも東北の方言なら九州の人にはわかりにくい。それでもコンテクストを超えさせる翻訳は可能であり、実際にも行われている。しかし、翻訳がうまく行われるのは、それだけ数学に近いということであって、論理学なら別のこと、文学としては名誉なことではない。小説に翻訳が多く、詩の翻訳がうまくいかなくても、詩はむしろそれを誇りにして良い。

・無季俳句・自由律俳句は俳句特有のコンテクストの放棄(P13)

 表現の上で、俳句が閉鎖的であることは、きわめて重要なことである。それをすてれば世界に類のない短詩型文学の基礎もたちまちにして崩れてしまう。例えば、季語という制約も、コンテクストを共有している証拠になるものとして価値がある。無季俳句はただ季語を用いないということのほかに、俳句特有のコンテクストを放棄することを意味する。それがしばしば俳句に似て非なる一行詩となるのは不思議ではない

・ちょこっと解説

・俳句の閉鎖性に目を見張るのはあくまで、「表現上のコンテクスト」のことで、「人間的な閉鎖性」「他の短詩系文学や小説の表現への排他性」を認めるものではない。このことを誤解している俳人の多いことには、俳句界一丸となって反省すべきである。(一俳人の勝手な見解)


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