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祖父の柚子胡椒

今日の夕飯は、昨日適当に作った鶏の塩焼き。
片栗粉を雑につけて焼いたが、皮がパリッとして美味い。
それに、ショリっと触感のある柚子胡椒がよく合う。
よく合うどころじゃない、ものすごく美味い。これで店がやれそうだ。
この柚子胡椒は、正月に夫の地元で買ったものだ。
県の名産ではなく、おそらく近隣県のもの。新幹線の土産店で、夫がふいに買った。
なぜこれを今、ここで?と思いながらも、買っていい?というのでいいよと言った。

柚子胡椒で思い出すことがある。
今は亡き祖父が、手作りしていた。
細い目のしわくちゃの笑顔で『食べるか?』と聞かれた。
小中学生だった私には美味しくは食べられないとわかっていながら、おちょくっている。
屈託のない、いたずらな笑顔だった。
祖父は早い年から呆けはじめていた。
『呆ける』がよくわからないほど、私が幼い頃から徐々に。

祖父宅は、広い敷地に平屋が建つ、古い造りの家だった。
建てた当時は立派な家だったのだろう。
私が覚えている姿は、まっくろくろすけが出そうなロマンのある家だった。
ところどころ軋む廊下は、年を経るごとに傾いていった。
その傾斜で、兄とビー玉を転がして遊んだ。
広い裏庭には、たくさんの植物が植えられていた。
よく祖父に連れられて庭を探検した。
『これはミカンの木だよ。今これは花が咲いとるね・・』
祖父母は大切に植物を育て、庭を手入れしていたのだろう。
畑で採れたものが食卓に並び、美味しくいただいていた。
私は、玄関先のきんかんを取って食べるのが好きだった。
それはとても丁寧で、素敵なことだったのだなと今ではわかる。

呆けた祖父は何度も同じ話をした。
特に、居間に飾られた、地域を代表するどでかい山のことを話した。
『昔ここは炭鉱の町でな・・』
兄は高校生、私は中学生の頃だっただろうか。
祖父が『呆けている』ことを知っているものの、どう対応していいのかわからない。
最初はぎこちない笑顔を向け、やがて興味を失ったような顔をしてしまっていただろうか。
終盤は、『そうなんやねぇ。』と他人行儀な空返事をしていたような気がする。
祖父はそんな孫をどう思っただろうか。
寄り添い共感するなんて方法は、まだ知らなかった。
あの絵はどこにあるのだろう。祖父のお気に入りだけあって、迫力のある立派な絵だった。
祖父はあの絵をみて、青春の日々を懐かしく思っていたのだろうか。
がむしゃらに働き、妻と二人の娘を守った若い日々に、思いを馳せていたのだろうか。

その頃になると、祖父は柚子胡椒を、ありあまるほど大量に作るようになっていた。
会話はできても、そのような試算ができなかったようだ。
冷蔵庫には柚子胡椒をつめたプラスチック容器で埋め尽くされていた。
老夫婦には広すぎる家で、片付けの苦手な祖母は困っていたと思う。
私たち家族が来る時には、祖父は玄関前で待っていた。
『よぉ来たね。』と垂れた笑顔で迎えてくれた。
自宅に帰る日には、たくさん土産を持たせた。
柚子胡椒もたくさん渡そうとするが、父が食べきれないから、と断っていた。

やがて徘徊するようになった祖父に、祖母は優しく付き添っていたそうだ。
怒りながら出かけるときもあった。祖母のことがわからないときも。
そんな時祖母は、『はじめまして、どちらまで?』とご挨拶をして、祖父を見守った。
わからない世界で、混乱して心細かったことだろう。
祖母は昔も今も、おおらかでチャーミングな人だ。
学生の私は、母から話を聞いて共感しても、何もしなかった。
目の前の青春をひたすら追いかけていた。

祖父は庭の手入れをしている最中、はしごから落ちて頭を打った。
入院した祖父はまた少しわからなくなった。
家族でお見舞いに行くと、社会人になりたてだった姉に『綺麗ゃな。』と細く掠れた声で言った。
その様子がなんだかおかしかった。呆けても、人懐こく愛らしい人だと思った。

祖父が亡くなった時、兄は泣いていた。
兄が泣き顔は小さいころよく見ていたが、大人になってからは無かった。
私よりも5歳年上の兄は、祖父との思い出も色濃いのだろうか。
その葬式の記憶も、もう10年以上も前のことになる。
コロナで、施設にいる祖母に面会ができないため、
祖父にも2年以上参れていない。遺影の祖父も優しい目で笑っている。
久しぶりにあの笑顔に会いたい。

祖父が作った柚子胡椒は、きっと美味しかったのだろう。
愛のある人だったと思う。
きっとこだわって作っていたんだろう。柚子はどこのを使ってたんだろうか。
どうやって作るんだろうか。今ならもっと教えてほしいことが沢山ある。
元気なあなたと、呆けたあなたでもいい。話してみたいことが沢山ある。
あの家で、あなたが作った柚子胡椒を美味しく食べてみたかった。
柚子胡椒の感想を伝えてみたかった。

おおらかでチャーミングな祖母も92歳。
入所している施設ではコロナで面会制限がある。
会えない間に、私達孫の記憶が遠くなっている。
すこし寂しい気持ちはあるが、忘れられることに抗おうとは思わない。
祖母の本当に大切なものだけ、しっかり残っていればいい。
自己満足で、時々手紙を出したり、花を贈る。
どうか、あなたを大切にしている人がいることが伝わりますように。
あなたが愛される存在であることが伝わりますように。
祖父にできなかったことを、祖父の大切な祖母に伝えたい。

早く、笑顔の二人に会える日が来ますように。

夫が飲み会から帰ってきたら、柚子胡椒を買ってくれたお礼を言おう。

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