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何者にもならない(消去法の自己実現)

自分探しなんてしたくなかった。

それが、正社員を辞めて約1年半、自分探しをした(している)派遣社員の僕の実直な感想です。正社員で働いている時の仕事に耐えられず、仕事がキツイのなら楽しんでやれる仕事を見つけるしかないと思い立ちました。

しかし失って何が残るのかを確かめてみれば、向いている「かもしれない」ことと、それを確かめるに値しない燃え切らない情熱だけ。

子供の頃から自然と続いていく何かの先に仕事があればどれだけいいだろうと思いました。

昔から僕は、やらなくてはいけない宿題だけを”なあなあ”にこなすことだけを昰としてきました。なんとなく面白そうだからを基準に大学も仕事も選んできたが、本気で取り組んだことなど一度もなかった。

譲れないものなんてない、けどやりたくないことはやりたくない。なんと典型的な真面目系クズだろうと思う。

本当の自分を見つけて今の自分とは別の「何者か」になろうなんて欲望が、空虚な自分を突きつけ、過去の自分の延長にしか今の自分はなり得ないという当たり前の痛恨を得たことが、いい意味で正社員を辞めた1番の収穫でした。

一方で感じたこともあります。「隣の芝は青く見える」を地で行っていたはずが、虚無感を伴ってみれば、「本当は別に誰も羨ましくないのではないか?」ということです。

職場でバリバリ働いている人、SNSでバズっている人、例えば誰みたいになりたいか、固有名詞で考えたときに「別に誰でもない。」と思ったのです。

それは嫉妬からかもしれません。ですが、では誰が幸せそうか?と考えてみるとそれぞれ充実の裏に苦労や絶望を抱えているだろうと思い馳せ、やっぱり僕には無理だなと諦められるのです。

有り体に言えば、衆目の多少関係なく各々やれることをやればいいだけという感じでしょうか。

ここで導かれる「何者にもなる必要はない」という結論が今の僕のような真面目系クズの原動力には残されていないような気がしました。

過去の自分と結びつかない、他人とすり替わるような自分を目指すのは一切捨ててしまいたい。そうでなければ変わらないという逆説でした。

最近、よしもとばななさんの本を読んでいます。ツイッターでバズっていましたが次のようなエッセイの一節があります。

月並みですが、何て救われるような言葉でしょう。肥大した自意識を溶かしていくことが、自分としていくこととイコールだと思います。

何者かになろうとしなくていい。そう思えば、誰も自分のことを自分が思うほど気にしてはいないと理解し、だから自分のペースと価値観でできることをやろうという気持ちに繋がる気がします。

ただ宿題を"なあなあ"にこなしてきた僕ならどうすべきかで考えたい。抜きんでた大きな才能なんてものがあるなら、きっとここで自分語りをしている暇なんてなかったはず。

見当違いな理想よりも今の現実で、自分のちっぽけな満足で誰かの役に立つ日々に辿りつけるように生きたい。

そういう、消去法の自己実現があってもいいのではないでしょうか。

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