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父も初めて歳を取る (【読書レポ】おらおらでひとりいぐも / 若竹千佐子)

昨日、実家にいる父から電話があった。父は70歳手前だ。年末年始の帰省はどうするかの話と互いの近況について。父の部屋には懸垂のぶら下がり器があり、もういらないからお前の部屋にどうだと言う。腰が伸びると神経が剥き出しになる感じがしてもう無理なのだそうだ。父はその後でこう言った、「歳をとると色々わかってきた。俺も歳取るの初めてやから」と。確かにそうだ。当たり前なのに、良いこと言うなぁと素直に感心した。息子の立場で聞くと感慨深い。

ふと思い出したのは、うちの父親は自分に対してでない来客があると、簡単に挨拶だけしてそそくさと自室に引き上げる。もしくは邪魔にならないよう何処かに出かける。礼節のためと言うにはひどく簡素な態度で顔を出すのだ。なら最初から顔を出さずにいれば良いじゃないかと思っていたが、「おらおらでひとりいぐも」を読んでいるうちに、そんな父親が愛しくなった。

この小説の主人公、桃子さんはボケの始まったお年寄りで、自分の中にいる自分や誰かと東北弁で語り続ける。何かにつけて出来事に意味を見出そうとする桃子さんの癖は、自分にも当てはまると共感した瞬間に、ああ、自分も老いていったらこんなふうに孤独に自問し続けるのだろうな、という諦めのような恐怖を覚える。読み進めると、諦めから生まれる恐怖が次第に勇気を伴ってして歩み続ける肯定へと変わる。そうだ、これで良いのだ、自分で決める。という自分本位な、純粋な勇気。

うちの父が簡素に挨拶だけするあの態度は、長く生きているうちに人生は悲しみと孤独から逃れられないと気づき諦めつつも、他人に縁を持たずにいられない人恋しさの間なんだろうなと勝手に解釈した。孤独を否定せず、縁も否定せず、自分で生き方を決める。これも、自問して意味を見出さずにいられない桃子さんに共感するからこその、自分本位な肯定だと思う。

自分の中で完結する癖、作中でいう傍観者としての生き方は他者を巻き込まず寂しいものだ。でも時にそんな在り方をやめられない性がある。相対的に変わっていく人間関係において、絶対的なものは自分自身への無遠慮な決めつけだけだと思った。これで良いのだ、自分で決める、と言うような。年とともに徐々に力を失い、世の中はどうにもならない事ばかりだと諦る中で、なおも自分として生き抜く攻防一体の勇気だ。

父が、何を色々わかってきたのか。神経が剥き出しになる感じがすると何がわかるのかは僕にはわからない。ただ父は、で「俺を歳を取るのは初めてやから」と自分の言葉で理由をつけた。挨拶を適当にすますのも、父自信は決して深い意味なんて感じていなくて、単に口下手なだけかもしれない。多分そうだろう。僕が父にどう解釈をしたところで僕自信の納得でしかない。父も自分自信に自己完結で意味をつけた。それぞれが府に落ち、自分を肯定してそれぞれの明日を迎えられる。

玄冬小説という言葉をこの作品で初めて知り、悟るにはまだ早いと普通は言われるうちに読むことができてよかった。仮の意味の答え合わせは、気がつけばすぐにやってくる。

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