【読書レポ】大江健三郎『個人的な体験』書評 − タネ明かしまで含んだ小説の面白み

ようやくのことで読み終えた。大江健三郎の作品を読むのはまだ『死者の奢り・飼育』以来2つ目。

先にwikipediaにてハッピーエンドの結末が批判されたことを読んでいたのでむしろ読みたくなった。

文庫版では巻末にて大江氏自らこの結末について解説を述べている。この巻末を持ってして『個人的な体験』を読み終えた、というような状態になっている。

わかりやすく、批判された終幕部に入るとことでアスタリスクによる区切りを入れ、巻末ではそれを目印にして解説を行っているのだ。

巻末で大江氏が『個人的な体験』を後から読んでみると「青春小説」であると評している(書いているときは苦渋に満ちていたという)。

確かにアスタリスク以降の明るさは異質に感じ、「私小説」ではないが大江氏自身の境遇、まさに脳に障害のある子供を持った当時の心境を重ねているという通り、青春小説の微笑ましさが現れ、それが浮いていると思ってしまう。

そういう違和感を踏まえ、僕はこの『個人的な体験』を”巻末まで踏まえて”、小説の構成とエンディングについての勉強になるものだと思う。

何気なく小説を読むのもいいが、構成をや対比を読み取って作者の意図を考えとれた(気になれた)ら嬉しいものだ。

大江氏は当時の批判に対し自分を擁護したことについて巻末でこう述べている、

僕の抵抗の基盤をなしていたのは、この小説そもそもの構想の段階から、冒頭の不良少年たちと鳥(バード)の対決と、しめくくりでの、かれらと《鳥(バード)という子供っぽい渾名は似合わない》主人公とのすれ違いのシーンを、対象させるべく目指していたことである。

つまり、最初は不良少年と争うような不安定さのあった鳥(バード)=主人公が、障害のある赤ん坊を受け入れ、自分と向き合えるように変わり成長した姿を対比させるためには、アスタリスク以降のハッピーエンドが必要であったということだ。

結末に賛否こそあれ、大作家が自身の著書に対してタネ明かしをしているわけである。

なるほど、ここに小説を読者として読んだときの結末への違和感と、作者の構成意図とのズレを認識することができる。

そういう意図があって書かれたことを気づいた時に、ならば有りかと思うのか、いやいや不要なエピローグだと思うのか、この逡巡の面白さが発生すると同時に小説を書く上での構成、対比という要素を生々しく感じる

それは、実際に批判があった作品でのタネ明かしだからこそである。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?