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『推し、燃ゆ』の感想のようで自分語り

「推しは命にかかわるからね」

生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たんなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。成美もあたしも例外ではないけど、調子のいい時ばかり結婚とかいうのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。

『推し、燃ゆ』といえば、第164回芥川賞受賞作品として話題の小説だ。

とはいえ、私自身はそういう、本屋さん大賞だとか、このミステリーがすごいだとか、芥川賞直木賞だとかを参考に本を買うことは少ない。目を引くことと言ったら、21歳と若い作者が書いている、というところだろうか。帯にも

三島由紀夫賞史上最年少受賞作家による今年度、圧倒的話題作

ドストエフスキーが20代半ばで書いた初期作品のハチャメチャさとも重なり合う。――亀山郁夫

すごかった。ほんとに。――高橋源一郎

21歳、驚嘆の才能

と銘打たれている。

だが、私が心惹かれたのは、珍しく本のあらすじだった。

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」

これがこの小説の序文である。太宰治が著した『走れメロス』序文「メロスは激怒した。」のような快活さがある。
主人公の”推し”が燃えたところから物語が始まる。

推し、とはなんだろうか。
わたしの周りは推しがいる人がかなり多い。推しを愛し、生活の糧とする人。わたしは特に心のよりどころを「推し」に求めない、そもそも誰かを狂おしいほど推したことがないのかもしれない。その気持ちを知らないからこそ、そういう”推し”がいる人がとても羨ましく感じる。

推し、とはなんだろうか。
その感情が知りたくて、この本を手に取った。

一般人や有名人がSNSに流入している、今この2020年代と変わらない世界が舞台で、その中でも若い世代の物語だ。主人公の一人称目線で物語が進んでいくが、かなりとっつきやすく感じる。さながら、私が中学生の頃に読んでいたティーン向けの携帯小説のような。(わたしはあまり携帯小説を読んだことがないのでこれが適切な表現かはわからない)

この小説の主人公の特徴の中で、物語中に折々に語られる「自分の肉体が重い。感情が肉体に引きずられる」というところが特に気になった点だ。

あたしのスタンスは作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。

これが彼女の、推しに対する接し方なようだ。
推しのことを解釈し、より推しを理解しようとする。ある種の同一化願望のような。推しの所作一つ一つの手触りを疑似的に体験し、推しを自らに受肉せしめんとする。その過程で、自らが空っぽになっていくように感じた。

この小説では、時間の流れがまるで分らなくなる場面がある。
時間の区切りのない、どこまでも永遠に続く無限空間。
身の回りに起こる現実はどこか遠くの場所で起こった出来事のように知覚しているのに、推しを想っている時だけが現実のようにはっきりしている。

そこで、折々で語られる、主人公が感じる「肉体の重さ」について考える。
現実の中に夢想が入り込んだ時、夢と現実の狭間にいる時、身体がとても重く感じることはある。それゆえの焦燥感。推しを解釈しているときはどこまでも自由だ。

わたしは、わたしが好きなものの最後はどうなるんだろう、と考えたことはないのかもしれない。それゆえに、最後まで見届けた作品を想うときにいつも思い出すのは、物語の最終回ではなく、物語の一番幸せだった時だ。
いつまでも続くと思っていた夢想が終焉に至る時、わたしならどういう気持ちで迎え入れるのか。今のところはまだわからない。


と、ここまでは主人公目線での感想文だが、第三者目線で主人公を見つめると、その行動は理解できない点も多々ある。

とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった。

推しにすべてを捧げること、信奉することは傍から見るとかなりバランスを欠いているようにも思える。どんどん"推し"に生活を飲まれていく感覚、一体化していく感覚というのは心地よいものなのかもしれない。だがわたしには空恐ろしく感じられる。

【崇拝】賛美する行為。素晴らしい存在だとみなすこと。
・心が奪われ、放心状態になる
・対象の特徴や癖を頭に入れる
・崇拝のしるしを持ち歩く
           『感情類語辞典』より抜粋

感覚としては、敬虔な教徒を目する気持ちに似ている気がする。
界隈で「ファン」の一部を「信者」と呼ぶことは、その姿勢に起因しているようにも思う。
その原動力の先は、"推しを推す者"をみつめる者にとっては空虚な手触りのように思えるが、それは推しから受け取っているものがモノではない「感情」だからなのだろうか。

何にお金を払うのが幸せになれるのだろうか。モノへの欲望は際限ないが、手触りを可視化できる。だが、感情は?「心の寄り処」に対する出費は?どうなのだろうか。



いろいろ考えてしまったのだけど、ちょっと結論とかは特にないので、最後に日常の中の本質っぽいなあって思うところを引用しておくことにする。(この作品の中には、そういう主人公の目を通した本質が随所にちりばめられているのでそれも読み応えのひとつだと思います)

学校へ行っていた頃、あたしは推しの音楽を聴きながら登校していた。駅へ向かいながら、余裕のある日はゆるいバラード、いそぐ日はアップテンポの新曲を流して歩いた。曲の速さで駅に着くまでの時間がまるっきり変わってくる、歩幅やら、足を運ぶリズムがその曲に支配される。
自分で自分を支配するのには気力がいる。電車やエスカレーターに乗るように歌に乗っかって移動させられたほうがずっと楽。午後、電車の座席に座っている人たちがどこか呑気で、のどかに映ることがあるけど、あれはきっと「移動している」っていう安心感に包まれてるからだと思う。自分から動かなくたって自分はちゃんと動いているっていう安堵、だから心やすらかに携帯いじったり、寝たり、できる。何かの待合室だってそう、日差しすら冷たい部屋でコートを着込んで何かを「待っている」という事実は、時々、それだけでほっとできるようなあたたかさをともなう。あれがもし自分の家のソファだったら、自分の体温とにおいの染みた毛布の中だったなら、ゲームしててもうたた寝しても、日が翳っていくのにかかった時間のぶんだけ心のなかに黒っぽい焦りがつのっていく。何もしないでいることが何かをするよりつらいということが、あるのだと思う。



表紙のイラストが素敵すぎたので、ダイスケリチャードさんの個展まで足を運んできた。

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素敵なペールトーンの世界。

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