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自分のための共感と、相手のための共感

何がきっかけだったかは忘れてしまったのだけど、されると1人じゃないんだと安心できる共感と、それは違うよと反発したくなるような共感があるなあと、ふと思った。

※出た結論はこのツイートとは若干異なりました

大辞林によると、

共感:他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。

らしい。

「あーわかる!」という感覚、これが多くの人が認知している共感の意味だと思うのだけど、その「わかる」には自分のための「わかる」と相手のための「わかる」があるなあと思い、その違いを考えてみた。

自分のための共感

自分のための共感は、他の人の考えや感情への素直な「わかる」のイメージ。「それずっと考えてた」だったり「言語化してくれてありがとう」だったり「考えたことなかったけどすごい納得」だったり。

この「わかる」は、仲間ができたような安心感を、共感した側にもされた側にもたらしてくれる、気がする。応援してくれる、一緒に頑張ろうねという同志ができたような感じ。

相手のための共感

対して相手のための共感は、「共感してあげたいな」「共感してほしそうだな」と、相手のために言う「わかる」のイメージ。相手が落ち込んでたり、悲しんでいたり、悩んでいたりする時に言ってしまいたくなる「わかる」。

この相手のための共感はちょっと危ない。なぜなら、共感する側は「元気づけたい」「励ましたい」と思ってしているのにも関わらず、された側が反発したくなるような悲しい勘違い"共感"を生んでしまいがちだからだ。

"相手のために"という気持ちが先行してしまっているので、本当の意味での「わかる」ではない。本当の意味で「わかって」くれていないので、共感された側も「全然わかってないよ!」と反発したくなってしまう。

そんな時に相手のためにできることは、”共感”ではなく、そのまま受け入れようとすることだと思う。

素敵な言葉をいつも届けてくれるなんでも言語化する屋さん桜林直子(サクちゃん)さんのツイートより。

「自分のこの時と似ている話」でもなく、「こんな状況にいるらしいあの人っぽい話」でもなく、「あなたの話」として受け入れてもらうことを望んでいる、気がする。

共感の共有は、おまけでしかない

自分のための共感は、あくまでも自分の中の「わかる」の感情だから、相手に伝えなくても共感。でも、相手のための共感は、「わかる」を相手に伝えることで成り立つ"共感"。

自分のための共感は、共感する側がいるだけでも成り立つので一方通行なのだけど、共有されることでする側にもされる側にもポジティブな感情をもたらしてくれる。

逆に、共感する側・される側が必要な相手のための"共感"は、共有されることを前提としているけど実はする側の"共感"の押し付けでしかないので、その矢印は一方通行だ。


「共感」そのものは、一方通行の動詞だ。私が主語で、目的語があって、それに対して「共感する」。

「わかる」を共有するアクションは、共感という意味自体には含まれていなくて、する側とされた側をちょっとハッピーにするおまけ、だと思う。

「わかる」を言いたくなった時は、これって自分の中だけに留めておける共感かな?相手のために口に出そうとしている"共感"かな?と一度立ち止まって考えたいし、場合によっては、"共感"じゃなくて応援だったり受け入れることだったりを選びたい。

ちなみに、このnoteへの共感はされればされるほどハッピーなので、是非共感を共有してもらえたら嬉しい限り、です!

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