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松井秀喜㊗臨時コーチ!!!

ワールドシリーズ制覇という野球選手として最高の目標を胸にニューヨークヤンキースへ。入団当初こそ慣れないメジャーリーグのピッチャー達に手こずったものの、メジャー初シーズンの2003年から2005年までの3年間は、メジャーリーガー松井秀喜として認められていく充実の時期。それは翌2006年から2009年までの4年間の契約延長へと繋がった。新たなスタートでもある2006年、これまで以上にヤンキースへの、チームへの集中は当然のことだった。

2006年は記念すべき第一回WBCが開催された年。日本代表侍ジャパンの監督は世界のホームラン王こと王貞治。王監督は優勝を目指し最強メンバーの招集に奔走する。
この時期、日本人選手の中にはイチローと松井秀喜という2人のスーパースターが存在していた。
王監督は1番にスピードスターイチロー、4番にスラッガー松井秀喜をイメージ。またそれは日本中の野球ファンが望んでいたドリームチームの姿でもあった。

日本中のファンが望むWBC出場への期待と、王監督から届いた出場要請の手紙。
ジレンマ…
2002年、メジャーリーグ挑戦の記者会見で見せた苦悶の表情。松井秀喜はあの苦しみに再び襲われることになる。

松井秀喜はヤンキースへの筋を通しWBCへの出場辞退を表明する。
「今は何を言っても裏切り者と思われるかもしれませんが…」
あの記者会見での言葉が思い出された。

松井秀喜の背番号55番の意味は、「王貞治のシーズンホームラン記録である55本を抜けるようなホームランバッターになれ」と与えられた番号。ヤンキースでホームランを打てば、アメリカで知名度が高い王貞治に喩えられ、ヤンキースのチームメイトからは「サダハルオー」とロッカーに落書きされたこともあった。
今思えば、そんな王監督へ出場辞退を伝えなければならなかったこと、出場辞退でファンの期待に応えられなかったことへの彼の申し訳なさは想像に難くない。

2006年、シーズン開幕から僅かに過ぎた5月11日、松井秀喜左手首骨折のニュースが流れた。この大怪我によってジャイアンツ時代の1993年8月から続いていた連続試合出場記録も途切れてしまう。

WBCの大会前、大会出場を辞退した松井秀喜に対して世間は冷ややかだった。
左手首骨折のニュースを知った時、私自身の心境を正直いえば、それは「罰が当たった」だった。好きだったはずの松井秀喜に、WBCを辞退したことと左手首骨折の大怪我を訳知り顔で結び付けて、妬みを含んで私は私の中で彼を悪者にしていた…

左手首の骨折後も両膝の故障など度重なる怪我に見舞われ、年齢から選手としてのピークが過ぎたと囁かれる日々。ついにヤンキースとの契約最終年2009年を迎える。

2009年ワールドシリーズMVP。
ヤンキースが優勝を決めたシリーズ第6戦の松井秀喜第3打席、この日3安打6打点目となる2ベースヒットを放つと、ヤンキースタジアムにMVPコールが巻き起こった❗️

1992年夏の甲子園。松井秀喜に5打席連続敬遠をした明徳義塾は「フェアじゃない、高校生らしくない」と非難されたが、高校生らしくないほど凄いのは松井秀喜の方だった。
ジャイアンツの選手としてピッチャーを射抜く鋭い眼にはインパクトがあった。それは「品性」や「努力」との振れ幅できっと一対のものなのだろう。ゴジラなのに敬虔な現実離れした雰囲気があるのもまた松井秀喜の魅力である。

野球の神様に愛された正真正銘のスーパースター。
みんなが松井秀喜にそのホームランに夢を託した。

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