ハッピーターンのような不幸が欲しい
適度に配慮のある泣き言を聞くのが好きだ。感情をなすりつける相手ではなく、ある節度をもって「この人には自分のとても柔らかいところを伝えてもいいのかもしれない」と丁寧に差し出してくれることがうれしい。
致命的な事件ではないし、誰かに時間を作ってもらい差し向かいで話すほどの内容でもない、でも確かに自分はきちんと悲しかった。という種類の傷は確かにあって、どうやら私はそういう類の話を聞くのにとても向いているらしい。
アドバイスはできなくても、この人の気持ちが少しでもふわっとなればいいなぁと思いながらいつも慎重なやわらかさで話を聞くようにしている。
ここ最近、私はとある女の子の泣き言の電話をよく聞く。決してポジティブではない話を何度しても、その人は感情を無遠慮に投げつけることをせず、私のことも慮りながらおずおずと差し出してくれるので、密かにとても尊敬している(大抵の場合、何度もネガティブな話をしていくと話しかたが段々ぞんざいになっていくものだ)。
自分の一番柔らかい部分を敬意を持ってそっと見せた時に、相手があしらうような反応をするとずぶりとお腹にナイフが刺さる。だから私はよほど親密な相手にしか自分のおなかを見せない。
でも彼女には、自分も柔らかいお腹の部分を見せられるかもしれないと思った。大事件ではないし重大ではないけどきちんと傷がついた話をしようと思った。それで、不運というより、ちょっとした不幸せみたいな出来事が割と頻繁にあることを話してみた。「定期的だと疲れてしまうから、たまにだったらいいんだけどね。半年に一回とか」と冗談ぽく言うと、その人は「コツコツなのがいいんじゃない? 半年に一回だとびっくりして倒れてしまうかもよ」と言った。
本当にその通りだと思った。慣れじゃないけど、定期的にあるからこそなんとか無事でいられるのかもしれない。
すごいね、ありがとう。と言うと、「ハッピーターンの袋みたいに小分けにされてるのがいいのかもね」と言った。なんだかとても嬉しくなった。出来事は何も変わっていないのに、彼女の一言で気持ちが少しふわっとなった。ハッピーターンのような不幸せっていいなと思った。
ーー泣き言は言いつつも、自分と周囲の気持ちを大切にして丁寧に日々を繰り返している彼女のことを私はとても尊敬していた。言葉にすると普通は気色悪がられるような、でも本心で感じている台詞を、その人は言葉のとおりに受け取ってくれると思った。
私は彼女に「とても尊敬していること」「話してくれていつもうれしい気持ちになっていること」「おなかがぽかぽか温まったこと」を伝えた。
彼女は、「なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せをいっぱい集めよう」という歌詞の曲を中1のときによく聞いていたからだよと謙遜していたけど、この人と知り合えて本当に幸運だったなぁとつくづく思った。
お互い異性愛者同士なので、性別の壁は予想以上に高いのかもしれないけど、この人と何かしらの形でずっと関わっていきたいなと思った。今のところ、彼女もそう思ってくれているみたいだから、適度に協力し合って仲良くしていきたい。
ハッピーターンのような、小分けの不幸せと小さな幸せの毎日を過ごしていこう。ひとまず明日はハッピーターンを買いに行って、製造会社の売上に貢献しようと思う。みなに幸あれ。