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無自覚なあざとさ選手権

女の子と2人でのランチ後半にスイーツが運ばれてきた。

彼女のその日の服装は黒を主体としていて、重たい黒髪にとても良く似合っていた。そして運ばれてきたスイーツがガトーショコラだったので、安直にも思わず「〇〇ちゃんはガトーショコラが本当にとても良く似合うね」と言った。

女の子は一瞬きょとんとした顔をしたあと、「それあざといよ」と言った。

えっ、そうなの? 私はこれまで何人かの友達から「人たらし」という大変不名誉な呼び方をされてきた過去がある。「男たらし」でも「女たらし」でもなく人たらしだ。

全く身に覚えがなかったのだけれど、例えば友達と2人で遊んでいるときに「もうちょっとだけ一緒にいてほしい」や「離れる前からもう寂しい」というセリフが駄目だったようだ。私としては本当に思ったことをただ言っただけなのだが、気のない相手には確かに良くない気がする。

そういう、割とわかりやすいものは学習して二度と使わないようにしているのだが、ささやかなあざとさはまだ勉強中だった。

それは定員さんにご飯を注文をするときに私が相手のメニューを先に注文してその後で自分のメニューを伝えるだとか、お冷を取りに行くとき氷入りと常温の2つ用意して好きな方を選んでもらうだとか、本人も気に入っているだろうアクセサリーやメイクを褒めるなどなのだが、どうやらそれもあざといらしい。

それはあざといというより気持ち悪いし、マナーの範囲内なのではとは思うのだけれど、誤解がないに越したことはない。

だから男女問わず、知人が可愛い小物を付けていても思わず褒めたくなる何かがあっても一切言わない。もう大人なのだから。

ただ、ガトーショコラが似合うね=あざといは盲点だった。私は気のある女の子の前でしか「スイーツ似合うね」と言わないと決めた。

その数日後、県外に住んでいる10年来の女の子の友人と遊ぶことになった。当初は私が午後から用事があることもあり午前10時という大人にとっては大変早い時間から遊ぶことになっていたのだが、急遽午後の用事がなくなった。

女の子と遊ぶ前日、私は電話で伝える。

私「明日は僕の予定がなくなったからもっと遅い時間から集合で大丈夫だよ」

女の子「えっ、10時がいい。そのほうがずっとずっと長く2人で一緒にいられるよ」

私「それあざといよ」

なるほど、これがあざといということかと思った。これはあざとい。そして本人に自覚がないからこそたちが悪い。私は自分より圧倒的に上位互換のあざとさに触れ、あざとさの罪を知った。これからは今まで以上にもっとずっと気を付けようと思った。目からウロコだった。

目からウロコという意味では、小説『君たちはどう生きるか』の前半に出てくる「万有引力の法則」のくだりも目からウロコだ。そして、あざとい人たちはまるで引力のように無自覚に人を惹きつけるよなと思う。この作品は本筋のメッセージ性がとても強いけれど(本書が書かれた経緯自体が、これからを生きる子どもたちの心の糧とするのが目的だった)、それを補うためのささやかな小話たちも素敵だ。

かなり昔の本なので、一度挫折してしまった方はマンガ版か、この本のオマージュである『僕は、そして僕たちはどう生きるか』から読んでも良いかもしれない。と、最後に教養の話題をさり気なく入れてみる。でもあざといのだろうなぁ、きっと。

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