今日やったこと。「相手の目線に立つ」ことのむずかしさと夫婦のいざこざ
最近、仕事で「◯◯さん's view」「◯◯さん's point of view」を意識して、声に出している。
誰かの視点からモノを見る、という力を持ちたいと思う。
◯◯さん's viewだとこうなんですよね
一方で、◯◯さん'viewではこうで
〜〜その狭間にあるはずの機能が抜けてるんですね
といった感じで、人ではない、構造とか、システムとか、プロセスを評価するような格好にすると関わる人が「自分が責められてる!」と構えずにフラットに接してくれる。
誰かの視点に立つのは、なかなか難しい。
自分の目や耳や頭や口を通ると、自分の視点が必ず入ってしまうため。
でも、これができると役立つことが多い。
問題は解決に近づくし、相手から信頼してもらえるし、傷つけ合いを防げる。
例えば、子どもがちっとも宿題をやらないとき。
子どもの視点に立つと「今週は、暑かったかな。授業で難しくても頑張ってやったんだ。家に帰ってきたものの、疲れてる、なんもやりたくない〜!ちょっと休ませて〜」こんな思いがあるかもしれない。
それなのに、「宿題やりなさい、早くしなさい、いつもいつもダラダラしない!」なんて言われたら「毎日はいつも同じじゃない。ママだってだらけてるときあるじゃん」と子ども心に思うかもしれない。この話、親目線で進んでいるのである。親の話を子に聞かせてるだけ。
子どもの視点に立つと、「おーい、今日はダラダラモードかい?お疲れ様。まぁ、まずはお茶でも飲んで一息ついたら?何時から宿題やる?リマインドしようか〜」と言った具合に、子どもの目線で話が進む。
子どもが動いてくれるのは、後者の場合。
最近そのことに気が付いた。
しかし、しかし、しかし。
なかなか、立ちきれていないのが夫の視点である。
夫の言い分は理解し、理解を示してもいる。
ただ、腹の底から賛同し難い気持ちになることが多いのである。
それはなぜだろうか?
おそらく、「私の視点も、理解してほしい。理解してあげるから、こちらのことも理解してほしい」という気持ちを捨てきれないでいるからだと思う。
なんだろう、この、自分だけ捧げるのはイヤ、みたいな感情は。子どもに対する気持ちとは全く違って驚きである。
今朝、夫に腹が立つことがあって、夫を送り出したのはいいものの一言言わないと気が済まなくなりLINEで送ったのがこんな攻撃である。
我ながら、ゾッとするほどやな感じである。毎日毎日蓄積されたストレスはそうそう簡単には消えないと学んだ。
私が夫に希望したことはただひとつ。私がバカで使えないなどの暴言をやめてほしいこと。
(私の負担することがらをやってほしい、とまでは言わない…人には得手不得手があるし、物理的にできないことは咎めないさ…)
しかし、私はわかっているのである。夫's viewに立てば、いやなことは回避できることを。「やめて」「そういうことを言うのは間違っている」「私が正しい、なぜなら〜」などと言ってやめさせるより、効果的な抑制方法や回避方法があるのである。頭ではわかっている。
ただ、人の視点に立つということは、自分がそこまで出向いていき、視点を保とうとする労力を要する。あたかも、自分だけが損したような気になってしまうので不思議である、そうした方が理があるとわかっているのに。
まだまだ足りない、修行が?器が?愛が?悟りが?
ちなみに帰宅後編もある。
送った時はスカっとしたけど、「わかってよ」というお願いをするという事態ほど無力感を感じるものはない。そんなお願いをせざるを得ない時点で、敗北している。(わからない人にもわからせる技術のなさ)
いつでも、どこでも、誰の視点にも立ってモノを考えられる人間になれるよう精進したい。
✏️あとがき
私がこの記事を書いたのは、このYouTubeに感化されたから。今、質問力を付けたくて仕方ない。
俯瞰したり相手の立場に立ったりと、自分の目線だけでものを考えないことで得られるもの与えられるものはあまりに大きいな、と思い。
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