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認知・判断・行動で答えを導く

数年ぶりに自動車の運転をした。長いこと車なしで一人暮らしをしており、運転する機会などほとんどなかった。

そこで、簡単に運転の復習をしていたところ、運転行動の3要素というものを見つけた。「認知・判断・操作」の3つだ。教習所でも習った記憶がある。

まず最初に、信号や歩行者など周囲の状況を認知する。次に、認知により得られた情報から、停止や発進を判断する。そして最後に、判断に基づきハンドルやペダルを操作する。運転はこれの繰り返し。

何気なくやっている運転も、確かに認知・判断・操作の3つのプロセスに分解できる。

また、交通事故はこの3つのプロセスのどこかでミスをした時に起こる。

認知なら標識の見落とし、判断なら停止か発進の間違え、操作はアクセルとブレーキを間違えるといった形だ。どのプロセスも間違えると致命的な結果につながりかねない。


前置きが少し長くなったが、このプロセスは運転以外でも同じだと私は思う。操作は違うかもしれないが、自分の身体を操作して行動すると置き換えれば、認知・判断・行動の3つのプロセスに分解できるのではないだろうか。

例えば、人に何かを伝える時、自分が知っている情報を相手も知っているとは限らない。そのため多くの場合、元々伝えようと思っていた内容に加え、相手の理解度に合わせ情報を付け足すことになる。

これは、相手の理解度を反応から認知し、足りない部分を付け足すかを判断して、伝えるという行動につなげている。認知・判断・行動の3つのプロセスだ。

これがもし、認知と判断をせずに、自分が予め用意していた情報だけを伝えようとしていたらどうなるだろうか。おそらく、伝えてはいるものの、伝わっているとは限らないだろう。

そのため、行動だけすれば良いのではなく、その前提にある認知と判断もすごく重要なのだ。

また、交通事故と同様に、どこかのプロセスでミスをすると、その結果はうまくいかない。

先ほどの例だと、相手が知らない情報を知っていると見誤り、つまりは認知を誤ったとすると、判断も間違ったものになり、行動も不足だらけな説明をすることになるだろう。


認知・判断をしてから行動する。言われてみると当たり前のことだが、案外これが難しかったりする。

人間は楽したがりで、予め用意した答えを使った方が簡単だ。しかし、それでは認知も判断をしないで行動していることになってしまう。用意した答えが正解ではなくなってしまう可能性があるのだ。

そして、周りの状態を認知も判断もしていない行動は、思いやりつながるとも到底思えない。

なぜなら、その場の最適解ではなく、自分が持っている答えを披露しているだけでは、周りの人を置き去りにしてしまう可能性があるからだ。

答えはその場の状況によって変わる。予め用意した答えに定まるとは限らない。

だからこそ、認知・判断・行動をセットすることは意義のあることなのだと考える。

答えは予め持つものではない。
いつだって答えは導くものなのだ。

おわり

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