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言語化できなかったモヤモヤを文章にしてみた

先日、地元で働いている姉と話していた時のことである。
(現在、私は、地元を出て都会よりの関西のある町に住んでいます。)

姉は地元のある地域で、専科の教員として、
小学校で働いている。
彼女の仕事について、こんなことがあったそうだ。
勤務している地域内で、同じ専科の先生が自主的に集まり、
勉強会などを行う集まりが定期的に開かれているとのこと。
この集まりは、仕事中は勿論できないので、
土日によく行われるとのことで。
勿論、勤務時間外なので、給料や手当は発生しない。

この集まりが、2月の土曜日に行われたが、
姉は他の予定があったため、顔を出さなかった。
なんと後日、別の用事で、その集まりに、出席していた
ベテランの先生と電話していた時に、
「何でこの前来なかったんだ!!」
「一人で勉強したって上達しないぞ!」と
お小言を頂戴したらしい。

自主的に集まって勉強し、仕事に貢献する意義は
分かるが、出席は任意で判断できるはずなのに、
なぜ、勤務時間外でに参加を
強制されなくてはいけないのか。
こういった付き合いが面倒だと、
愚痴っていた。

分かる!分かるよ!お姉ちゃん!!
私も地元で働いていた時、
仕事とは関係のない、集まりや活動が
あったから、その面倒さと閉塞感、
分かるよと愚痴話に花が咲いた。

一般的なのか定かではないが、
仕事外の自主的な勉強会や活動では、
40代~50代のベテラン勢が
やりがいをもって、集まりを引っ張っている
ように見える。
彼らが言う、集まりを行う理由とは、
「みんなで行うことに意義がある」
「みんなでやることで成長できる」というものである。
そういった言葉を日常的に聞いていると、
集まりに参加しないと、自分の人生が悪い方向に進んで
しまうのでは、という根拠なき焦燥感を抱くことになる。
加えて、本当はやりたいことがあるのにという感情との
せめぎ合いで、モヤモヤする日々を送っていたことを
思い出した。

ここで突然だが、勤務時間での「自分でやりたいこと」を
分解してみる。
例えば、平日ではできない家事、
家族や友達との時間、
身体や心を休めるための時間(休むことで次の週も頑張れる)、
興味のある資格や分野の勉強をする、
普段は関わらない人に会うなどなど、
こういった時間も
一瞬一瞬が大切な時間なのではと私は思う。
冷静に考えると集まりに出席することが、
自分の人生を左右する訳ではないということが
分かる。

私の人生経験が浅いのは百も承知だが、
勤務時間外の活動に熱心な人というのは、
仕事以外のコミュニティを持ったり、
色んな人が世の中にいるということを、
経験しないまま年数を重ねてきた人が多いのでは
と推測する。

しかし、そういった集まりを安易に「悪」として
捉えるのも良くないと思ってしまう。

もしかしたら、人ではなく、田舎や都会という
環境が大きく影響してるかもしれないし。
集まりに参加して、得られる経験や人間関係も
あるはずだ。
そして、何より、半強制的なしがらみがあることで、
多くの人が孤独の淵を見ないで
すんでいるのではと考える。

私の経験だが、地元から出て、
別の場所で生活していくとなった時、
今まで感じたこのない孤独感や不安感に苛まれた。
この孤独感を解消するには、人のいる場所に行き、
人と話して、時間と運を賭けて、
時には自分の弱さと気持ち悪さに悲鳴をあげながら、
思考錯誤していくしかないということが、
現在の私の答えである。

思い返すと、私が地元で働いていた時、
しがらみは面倒だと思っていたけれど、
独りぼっちなんだ、という孤独感は感じなかった。

何事にも良い面と悪い面はあるものだし、
自分としては、田舎と都市の違いに興味があるので、
この話題について観察を続ていきたいと思う。





































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