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記事一覧

小説 コンタクトレンズ #6

小説 コンタクトレンズ #6

 次の日は大学に行った。人通りのほとんどないキャンパスは閑散としている。もう半月ほど経てば新入生で溢れかえり、膨らんだ桜の蕾も開いて、ぐんと春らしくなるだろう。数年前の自分もその中にいたなんて、ふと夢を見ていた気分になる。人のいない食堂、中庭の茶色い芝生を横切る。静かな建物のあちこちに面影が映る。あまり長居したくなく、足早に研究室へ向かった。
 ノックすると、どうぞ、と返事があったのでドアを開けた

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短編小説 幸せの証明

短編小説 幸せの証明

 深夜、駅から少し離れた正面に公園があるコンビニの、左から数えて2番目の駐車場の車止めブロックでいつも待ち合わせた。別にそう決めたわけじゃない。だけど、何度か数奇な時間帯に顔を合わせていたら、不思議と待ち侘びている自分がいた。
 きっかけはある夜、煙草の火を点けて顔を上げた時、和羅がコンビニに入った。その名前はのちに知ることになるが、煙草をちょうど吸い終わる頃にまだ名を知らない和羅という女が出てき

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小説 コンタクトレンズ #5

小説 コンタクトレンズ #5

 店を出る時、時計を確認した。どうにか終電に間に合いそうな時刻だった。
 4人で飲み始めてから早々に菜生の酔いが回り、ひとしきり大きな声で話をした後にウトウトし始めた。明日は休みだと聞いていたので、菜生の彼氏に連絡しておいて正解だった。彼氏の園田くんは会計をする直前に現れ、私たちの前で大きな図体を恐縮そうにすぼめた。
「瑞里ちゃんごめんね。今日終わったら連絡するって言ってたのに来なくて。心配してた

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小説 コンタクトレンズ #4

小説 コンタクトレンズ #4

 リリンッ。リン。
 軽やかにドアベルが鳴る。扉の向こうから、幼い男の子が顔を出した。母親らしき女性にその手に引かれて、恐る恐る小さな足を進める。初めてだろうか、好奇心旺盛に回る瞳が、やがてある一点をとらえた。途端、男の子はショーケースに走り寄り、手の広をガラスにつけた。彼の目の前には、外側に三角のチョコをつけ、チョコペンで顔を描いたネコのケーキ。
「かわいいね」
 女性が言う。穏やかな声。男の子

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小説  お酒で世界が変わるなら  #1

小説 お酒で世界が変わるなら #1

「ばかお前、酒飲んだ時に出た言葉が本音だろうよ」
 ぼやけた視界の中聞こえた、加賀さんの声。たぶん、顔笑ってる。

 その日、炭火焼きで有名らしい焼き鳥屋の店内は満員。炭から立ち上る煙と他のテーブルの副流煙が充満していて、どこもうっすら白い。とても居心地いい空間とはいえないけど、みんな好きに身を寄せ合ってる。きっとここに集まる人たちの多くは現実に疲れていて、お風呂に入って早く寝ればいいのに、それだ

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小説 コンタクトレンズ #3

小説 コンタクトレンズ #3

 その時は突然訪れた。
 菜生と話をしてから一ヶ月ほど経った頃、私たちは付き合って半年記念に少し遠出しようかと話していた。切り出したのはしのくんだった。思いがけない提案に驚きつつ、悟られないようにはしゃいだ声を出した。当日までしのくんはどこで何を食べようか迷い、手の中のケータイ画面をなぞっていた。その様子を見て、私はまた気持ちに固く蓋をした。
 当日は快晴だった。旅行中の降水確率も0%。午後から雨

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小説 コンタクトレンズ #2

小説 コンタクトレンズ #2

 時にルールから私が外れても、しのくんは声を上げたりはしない。揺れる瞳で私が修正するまで待つか、初めてのことだったら自分でそれを正した。
 無言の圧力に耐えかねて、一度「不満があったら言って」と伝えたことがあったけど、しのくんは「嫌なら瑞里はしなければいいよ」と小さく言っただけだった。それは優しさじゃない。「別れればいいよ」と、同義語だ。私はもう何も言わなくなった。

 りんごの一件があってからす

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小説 コンタクトレンズ #1

小説 コンタクトレンズ #1

 コンタクトレンズをつけたまま、私は眠らない。

 眠れないんじゃなくて、眠らない。多分誘惑に負ければ簡単に眠ってしまえる。だけど、どんなに睡魔が手招こうが、腕を絡めて低めのいい声で、寝ちゃいなよ、その方が楽だよって囁いてこようが、生理的欲求に抗い、私は目を見開く。
 昔、知り合いがコンタクトレンズをしたままつい眠ってしまったんだと友人が話をした。次に目を開いた時レンズが瞳に貼りつき、離れなくなっ

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短編小説 キズパワーパッド

短編小説 キズパワーパッド

もう日が暮れかかっているというのに、引っ張って連れてこられたのは廃れたカラオケ店だった。
 暗くなるのが早くなったから、夏よりも帰宅が遅くなるとお母さんがうるさいなと思ったけど、掴まれた腕を振りほどくの気力はなかったから、なされるがままに店内に入る。彼女は気怠そうな店員相手に、私の腕を握る反対の手で差し出された受付の用紙に必要事項を書いていく。その強さは、さっきから少しも弱まることがない。

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