深夜の(元)吸血鬼
深夜に粛々と皿を洗っていた。
疲れていたし、皿洗いは好きではない。それでもシンクいっぱいのこの器たちを片付けなくては明日の朝に使える皿がない。頭の中で『ルームシェア 解消』と検索しながら、皿の泡を流し水切りかごを山にしていく。
同居人である元吸血鬼の彼らは皿の重要性を今ひとつわかってくれない。彼らにとって食事は生命活動に必須な習慣などではない。美味しいから食べる、美味しかったら食べる。趣味あるいは暇つぶし。それか人間とのコミュニケーションの一環、はたまた話の種。わざわざテーブルクロスを引き皿を用意しカトラリーを並べるといった儀式めいたことを、プライベートではしない。中にはそうやって食事を楽しむ者もいるらしいけれど、それは『人間ごっこ』と言われ変人に分類される。殆どが、私たち人間が移動の車内でグミをつまむような感覚でチキンや寿司を食べるのだ。適当な皿に適当に盛り付け、映画を観ながらソファでつまんだり、煙草のお供にしたりする(彼らは嗜好品を好む)。
勿論、そんなのは彼らの勝手だし好きにしてくれたらいい。
使った皿さえ片付けてくれたら!
奴らは洗わない。歴史的に人間より上位存在だった記憶のせいか、私たち人間のために下働き的な作業をする感覚を持ち合わせていないのかもしれない。プライドが許さない、というものでもなく、そもそもそんな発想がないといった様子である。この一ヶ月で何度か注意してきたが、私が怒っている理由がよく解っていないのではないか。
そう、牙無しの元吸血鬼たちとの共同生活も一ヶ月が過ぎたのだ。文化の違い、文化の違いと呪文のように心で繰り返して自分を宥めてきたが文化じゃない、種の違いである。いっそ彼らが犬とか猫みたいな見た目なら諦めもつくというものだ。
そんなふうに疲弊しきった所で背中に気配を感じた。そして次の瞬間にはもう、左肩に埋まる顔があった。
猫が懐いてくるように、栗色をした髪が肩もとに擦り寄っている。
「頼むから声掛けてよ……」
深くため息をついて、皿洗いを続行する。
「ただいま」
おざなりにミレイはそう言って、私の首筋に何度もキスをする。『おいしいな~』という副音声が聞こえてくるようだ。
自分でもどうかと思う、でも、もうこの不健全さにも慣れた。
当初は彼らが時折見せる美味しそうだね〜という視線や振る舞いに慄いたものだけれど、彼らはもう、人間の血液を必要としない元、吸血鬼だ。飲んでも命を繋ぐことは出来ず、最早美味しくもないという。それでも血色のいい人間や血の匂いを前にすると、古傷が疼くように反応をしてしまうことがあると言う。それについては、最初に説明された時は不安になったけれど意外にすぐ慣れた。
もし、私の好物のサーモンとクリームチーズのサンドイッチが自我を持ち、気の合う奴だと解れば食べるのをやめ仲良く生活をする。そして私が朝も昼も食いっぱぐれて疲れて帰った冴えないある日、キッチンで佇むサーモンクリームチーズサンドを目にしたとするなら、その時はきっとお腹を鳴らしてよだれを溜めて、『ただいま』と言うと思うのだ。
だから、きっと、そういうことだ。
ついつい私の首筋にそそられてもそれは一時のことでひとしきり匂いを嗅ぎキスをしたら落ち着く。
それなら、それでいい。
疲れて思考が鈍っているその時だけ。野蛮な獣を抱えているのは私も彼らもきっと変わらない。まるで愛されているように錯覚して心地いいのも本当だから。
子供の頃に飼っていた猫のことを思い出す。茶色のトラ柄で、可愛かった。あんまり可愛くて、猫同士がじゃれてするように、耳をかぷっと噛んだりしていた。私がそうしてもいつも無関心な態度だった。
「おかえりミレイ君。久しぶりに顔を見た気がするけど」
いつもの明るい髪はどことなくくすんで見える。面白いことに、彼らの体調は髪に出る。見るからにぱさついたりまとまりが悪くなるのだが、色味に出るのは相当の疲労の証拠らしい。
「そう、もうへとへと」
気が済んだらしい彼は顔を上げてその端正な顔を見せた。猫のようなグリーンの瞳がしょんぼりとしている。
「三徹してきた、一日で帰してくれる約束だったのに」
「大家さんとこ? 相変わらずいつでも修羅場だね」
この家に住む元吸血鬼で労働らしいことをしているのはミレイだけだ。人間好きの彼は複数のバイトを掛け持ちしている。最初の頃はうきうきと楽しそうだったけれど、この頃は元気がない。
「ヒトより体力があるのも辛いものだね」
気の毒に思った。ブラックな労働をきっかけに人間嫌いになられたら申し訳ない。元吸血鬼は貴族的な質の者ばかりで真面目に働く者はあまりいないけれど、それでも芸術分野では時折見かけ、同居人の一人である真夜中は時々ラウンジやバーへピアノを弾きに出掛けている。それでもとても仕事といった風情ではなく、気が向いた時だけふらりと出向くのだ。そんなのでいいのと訊ねると、それでいいと言われたからと涼しげに返された。きっと懇願されたのだろうなと想像がついてしまう。真夜中は、元吸血鬼の中でも特別だ。誰もが彼女を好きになる。そこにいるだけで空気を一変させてしまう。
真夜中は……、
真夜中の話は長くなる。
「代わるよ、それ」
突然ミレイは私の手から泡だらけのスポンジを取り上げた。
「えっ、どうして? くたくたなんでしょミレイ君」
あんなに腹が立っていたのにいざ代わってもらえるとなると遠慮してしまった。
ミレイというより、家にずっといて今は寝ている他二名に変わって欲しい。三日間家を空けていたミレイが使った皿はここにはない。
「伊織も疲れてるでしょ。僕は五徹までなら平気なんだ。そこまですると、流石に髪は黒ずむけどね」
「……そういうこと、大家さんにも言ってる? 出し惜しみした方がいいよ、あの人際限ないし」
「初日に言っちゃったね」
「ああ……」
ミレイはふふふと笑った。
「二人にも言っておくよ、使ったらすぐに洗うようにさ。彼らも洗う気はあるんだよ。ただ、僕たち寿命が長いじゃない。のんきなんだよね、基本」
のんき……。デリカシーがないだけかと思っていた。
ないのかもしれないけれど……。
「…ミレイ君は、吸血鬼っぽくないんだ? 感覚が」
私は水切りかごの皿を拭いていく。
「あんな年寄りたちと一緒にしないで、僕は若いんだから。大発表以降の生まれだし、人間と仕事してるし友達もいるし」
そうミレイは悪戯っぽく笑い、さくさくと皿を洗い終え、蛇口を留めた。私が洗うよりは雑、でも早い。
洗ってくれて嬉しかった。
そもそも、一人で暮らすのが嫌になって、半ばヤケで決めたルームシェアだった。
一人で、ちゃんとしようと思いながら暮らすのが、嫌になって。
面白くなくて。
誰かの世話をしたかった訳ではないし面倒を見てもらいたかった訳でもない、誰かがいてくれた方が適当になれると思って、だから、そう、皿のことなんかで怒るけれど、本当は、居てくれるだけでいいと思って始めたのだ。犬や猫みたいに。
それなのに、コミュニケーションが取れれば取れるほど求めてしまう。解ってほしいと思ってしまう。際限がなくて自分が嫌になる。最初から、解り合えないことも承知の上だったから、余計に。
疲れて帰ってきて洗い物が山積みだったらげんなりするけど、あぁもう解散だ解散だって思いながら洗うけれど、本気じゃない。
私は朝は弱いけれど、朝からご機嫌の彼らといるとつられて元気になってくる。美味しい紅茶だって淹れてくれる。私の知らない物語を聞かせてくれる。
気づけばミレイがじっと私を見ていた。私は『何?』と笑顔を作って彼を見る。
「パフェでも食べに行かない? ファミレスに」
「今から?」
びっくりして時計を見る。午後11時47分。
「うん……楽しいかなと思って」
ミレイは後ろ頭を掻きながらどこかはにかんだ表情を見せた。彼の栗色の髪はいつの間にか普段の輝きを取り戻している。グリーンの瞳はいきいきと澄んでいて三徹したようにはとても見えない。凄い回復力。羨ましい。でも、私も一人で殺伐と皿を洗っていた十分前に較べたらずっと調子は良くなっていた。
……楽しいかもしれない。
「じゃあ……、真夜中とダジーも起こそうか」
ミレイはぱっと笑顔になった。
「いいね、起こそう起こそう」
「引き摺って行こう」
彼らのお陰で朝は楽しくなったし、夜も、概ね楽しくなったのだ。
続く
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