先生はすごい?
「センセイ、こんにちは。センセイ……えりな先生!」
駅の中を歩いていて、どこかから外国語アクセントの日本語が聞こえるなとは思ったものの、それが私に対する呼びかけだったとは。
名前を呼ばれて足を止めると、豊かな髪を結い上げた大柄な女性が、覗き込むように私の顔を見ています。
「あー、セシリアさん」
「さっきから何度も呼んでるのに。そんなにぼーっと歩いててダイジョーブ!?」
「ごめんなさい。¡Estoy bien!(大丈夫!)」
「¿De verdad?(本当に?)気をつけてね」
セシリアさんと並んで歩きながら、これではど
ちらが先生かわからない、と苦笑いしそうになります。
セシリアさんは50代半ばのペルー人女性で、誰にでも分け隔てのない面倒見の良さと、パーティのケータリングも請け負う素晴らしい料理の腕を持っています。
言語の才能も飛び抜けていて、ほぼ完璧な日本語に磨きをかけるかたわら、ロマンス諸語を独学する私に、スペイン語のミニレクチャーまでしてくれます。
こんな人から「先生」と呼ばれるのは面映い限りですが、セシリアさんも通う日本語教室内で、私は教師の役割を担っているため、それも仕方がありません。
けれども、それをいかにも不釣り合いに感じているせいか「先生」の呼びかけに、さっきのように気づかないことはよくあります。
私はバレエやヨガの世界でもパートタイムの先生を務めているのですが、そちらでも実感は希薄です。
誰かに何かを伝え、教えられるのは喜ばしいことながら、先生と生徒という縦の関係性が、私にはどうにもしっくりこないのです。
ほかの“先生”たちはどうなのだろう、誰かに聞いてみたいなと考えてみて、自分の周りが先生だらけなのに、今さらながら驚きました。
たとえば。
診療のかたわら勉強会を主催する精神科や小児科の医師。
心理療法士に理学療法士。
アーユルヴェーダ (インド医学)講師。
整体師にロルファー(ロルフィング施術者)。
フェルデンクライス(ボディーワーク)インストラクター。
カリ(フィリピン武術)指導者。
ヨガにフィットネスインストラクター。
バレエにフラメンコダンサー。
ヘアメイクアーティスト。
保育士。
学校教師に大学教授。
日本語に英語教師。
ヨガ哲学指導者。
美術教師。
能舞に謡指導の能楽師。
能管に尺八奏者。
市民団体の相談役も務める弁護士。
皆、友人知人などごく近しい関係の人たちで、ちょっと珍しい職業の人も含め、あらためて眺めるとなかなかに壮観な“先生”たちです。
これらの人々との出会いやつき合いに思いをはせると、そこから自分の人生が浮かび上がってくるかのようで、面白くもあります。
私の興味の対象や動き方の方向を示すように、何かの先生をしている人は多いのですが、その人たちは私など比べものにならないほどの、本物のスペシャリストです。
そんな知識や経験も豊富な人たちと、私のようなパートタイムの“先生”を一緒にするのは失礼ですが、それでも誰かに何かを教えることの、責任の重さは変わりません。
私が何かを伝えようとし、相手がそれを理解できない場合、その原因のほぼ全ては私にあります。
その人に見合ったレベルの内容を、その人にわかるように伝達できないのは私の落ち度です。
だからこそ、そこを乗り越えるべく工夫を凝らし、どうにか相手に届いた時の感動といったら。
「やっとわかった。教えてくれてありがとう」
この言葉ほど嬉しいものは他になく、こちらこそ私から学び取ってくれてありがとう、と言いたくなります。
そんな瞬間があるからこそ、自分が「先生」などと呼ばれるのにどれほど不慣れでも、また懲りずに何かを伝えたくなるのかもしれません。
教えることを通じて、こちらの方もより深く学び直せていることは確実ですし。
そして、これは何かの先生であるかどうかに限らず、万人に当てはまることでもあります。
自分の持つ知識や技量でもって、少しでも人のために尽くそうとする人は、皆、巡り巡って大きな何かを得ています。
アメリカの思想家ラルフ・ウォルド・エマーソンが、こんな美しい言葉であらわすように。
「誰であれ、心を込めて人の助けになろうとすれば、必ず自分自身をも助けることになる。
これは、人生が私たちに与えてくれる最も素晴らしい報酬のひとつである」
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