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 005 飢えは叔母さんではないから、ピロシキはくれたりしない 【明石さんの諜報飯大作戦】

 俺、明石元二郎のモットーはひとつしかない。

 ”働きながら遊び、働きながら飲む”

  飲み屋のあたりはずれ?そんなのはどうでもいい。まずくてもうまくても話のネタにはなる。けれど、どんな店でもひとり床に着いたとき、にやにやできるものがいい。ひとりさむい布団の中でも、群像にまじり飲み屋の卓子でつっぷし眠る夜でも、目を閉じたまぼろしとうつつのはざまで、希望に満ちた明日を夢見られるものがいい。

 諜報というのはどれだけその街に溶け込めるかが問題だ。飲み屋で酒を飲み交わして美味い飯を食う。それ以上にうってつけの場所がどこにあると思う?他にあったら教えて欲しい。

 005 飢えは叔母さんではないから、ピロシキはくれたりしない

 困った時は自分でなんとかしろ。というロシアのことわざらしい。
 できればそうしたいものだけれどなかなかそうもできないこともある。しかし、ああしまった、悪魔に恩を売ってしまったと思うこともある。
 それが悪友との腐れ縁ってやつである。会いたくない時に限って出くわし、しかし思い返すとなんだかんだで助けられたことに気づいてひとりバツが悪くなるものだ。二度と関わるものかと決めたくせに、またなんだかんだで一緒にいたりする。
 都から離れた田舎に借りたダーチャでひとり庭に作った畑の面倒をみていると、学校時代悪友たちと西瓜やら酒やらを秘密で持ち込んだのを思い出す。

 が、今回はそうもいかなかった。畑は全部虫にやられて倉庫は獣に荒らされて漬けておいたザワークラウトの瓶が床に散らばっていた。せっかくの休日がダーチャの掃除で終わってしまうじゃないか。と、文句言いながらも放っておくわけにもいかずにもくもくと片付ける。ロシアの夏の日没は遅く、夜九時ごろまではずっと明るい。
 ここで時間を知らせてくれるのはもちろん腹時計である。
 胃の奥がぎゅっとつままれ、一気に酒を流し込みたくなる。だが、食料は全滅だ。こんなことなら黒パンでも持ってきておくんだった。釣りにも行こうかと思ったがもう時間が遅い。
「やれやれ」
 しかたないのでスキットルのウォトカとちびりと舐め、洋袴のポケットにねじこんできたぼろぼろの小説を読んで気を紛らわすことにした。こんな夏の夜もたまにはいいだろう――酒がまわればいずれは眠くなる――。
 高い天窓から菫色の夕暮れがゆっくり降りてきた。灯りをつけるのが面倒で古い布が破れたソファにあずけた背中が夜と一緒に闇にしみこんでゆく。ウォトカをひとくち。胃の底がじわじわと熱くなり、ますます腹が減ってきて食べ物のことばかり頭に浮かぶ。
 隣のダーチャまではわりと距離があり、昼間だと人がいるのかいないのかもわからない。目をやると、部屋の灯りはついていないようだった。星のまたたきが聞こえてきそうなくらいにしんとした夏至の数日前。酔いが回ってきているのに逆に意識が冴えてしまって、今ならシベリアの山の峰にでも手が届きそうな気持ちになる。二倍にも三倍にもふくれあがった体が風船のように軽い。なにせ、月が美しすぎた。

 こんな時、人というのは魔がさすのだろう。
 こんな時に、悪友たちがにやにやとそっと背中を押すのだ。

「次来た時返せばいいだろ」
 ふらふらと立ち上がり、夢半分で外に出た。裸足のままでふむ土が足の裏に気持ちいい。風に向いて、土を感じ、目を閉じてもどこまでもまっすぐ歩ける気がした。
 ふとまぶたを開くと目の前に隣のダーチャがあったので驚いた。神様のいたずらだろうか。トタンの屋根に月明かりが淡い影をつくり、雨晒された木の壁は水が染み込んだところが黒く変色して向こう側に筒抜けているみたいに闇と同化している。に、白い影。人がいると思ってぎょっとしたら、なに、窓に映った自分のだ。窓がでかい。
 家主が育てようと用意したのだろう、植木鉢になにかの苗が並んでいる玄関横。の、もう少し脇、鬱蒼としげる木の影に母屋に隣接した小屋をみつけた。スパイの直感がここだと言っている。持ち上げた鉢を戻し、庭にも家の中にも人気がないのを確認して、扉を開ける。
 燐寸を擦るとじじじと、棚にならんだいくつもの瓶が照らされた。苺の砂糖漬け、きのこやきゅうりの酢漬けが標本のようにならんでいる、ようだ。燐寸はすぐに消えて逆に目が眩んでよく見えない。けれど、空腹が手伝うと剥がれた靴底だってうまそうに見えるもんだ。どれでもいいか、と手を伸ばした時だった。
「あんた見て!鉢の場所が変わってるわ!」
 声がして瓶をうっかり落としてしまった。床の上に発酵した食べ物のつんとしたにおいが広がり床板の隙間に染み込んでゆく。
「あっち!食糧庫のほうだわ!」
 声と二人分の足音が近づいてくる。ぱぁんっと放たれる猟銃の音。一触即発。
 しかし俺は諜報員明石元二郎。こんなことで慌てたりしない。なんど俺が菓子食いたさに桔梗屋の塀を越えたと思っている。考えるな、感じろ。

 足のつま先にぶつかったのはさっき割れた瓶の破片だった。裸足だったのを忘れていた危ない。しかし使える。拾って思いっきり窓に向かって投げると、
「あっち!小屋の裏よ!」
 老女の声と吹く風が夜を騒がす。その隙にさっき見つけた地下倉庫への床板を外す!貯蔵庫があることはわかっているのだ!さっき瓶を落とした時にやけに早く瓶の汁が染み込んでゆく場所があったのだ!いや、うちにもあるからそうだと思っただけだが、勘が当たった。とはゆっくりはしていられない。大きな足音がばたばたと床を踏み、
「ああ、やられた。今度きたら焼いてシャシリクにして食ってやる!」
 としわがれた老齢の男の声がした。
「あんた、もう片付けは明日にして私たちも食事にしましょう。こっちにも鍵をかけないとだめね」
 夫婦らしい。年老いた二人が深かくなってゆくばかりの夜を出歩くとは思えない。男のほうはぶつぶつとごねながら小屋を出て行った。どうせ、早く寝るだろう。物音がしなくなった隙にさっさと出ていけばいい。
 しかし待てど暮らせど二人は眠らない。なぜ一気に必要なものを持ってゆかないのか、何度も小屋と母屋を行ったり来たり。なんなら手伝ってやろうかと声をかけてしまいたくなるほどだった。しまいには二人きりだと思っていた老夫婦のダーチャにひとり、ふたりと人が増え、バラライカの弦が響きとそれに合わせた大合唱。そうだ、なめていた。ロシア人は夜通し酒を飲むのだ。いつもの飲み屋の面子がおとなしく感じるほどだ。
 だんだんと小屋にくる回数が減ってきて、やっと外に出られたのは来た時と同じくらい空が白んだ頃だった。
 とっくに酔いも覚めたしらふで朝露に濡れる草を裸足で踏み締め自分のダーチャにもどる。昼過ぎにはここを出なくては……そのまえに少し寝たい。
 そしてぼろぼろのソファに体を横たえた時だった。
「いらっしゃるー?」
 扉を叩いたのはあの老女だった。
――まさかばれたのか。
 居留守を決め込もうかと思ったが、なかなか気配が消えない。腹をくくって扉を開けた。
「はい……」
 彼女は鍋を持っていた。
「あなた最近いらした人よね。日本の方?いつか伺おうって思ってたんだけどやっと捕まえたわ」
「はあ――」
 親切そうな、世話焼きそうな感じのよい人だった。
「これ、昨日の残りなんだけれど食べるかしらって思って。あまったんだけど取ってもおけなくてね。鍋を返すのは次でもいいのよ」
 蓋を開けるとこんがりと焼けたピロシキが三つばかり入っていた。
「昨日うちにきつねが出たのよ。それで保存庫をやられちゃってね。あなたも困ってるんじゃないかって思って」
「ああ、実はそうなんです」
 と、そしらぬ顔で返した。
「この辺はよく出るのよね。そういうのが」
「きつね以外にも出るんですか?」
「ええ。本当にね、困っているのよ。最近」
 揚げ物の良い香りに耐えられず、鍋を片手で支えながらむしゃりとピロシキにかぶりつく。固い生地の内側でじゅわっとひき肉の油が染み込んだ馬鈴薯とミルクバターのピュレー。うまい。うますぎる。
「あらら、そんなにお腹すいていてたのね」女はくすくす笑い、「こっちはジャムなのよ」ともうひとつ差し出した。苺とりんごの甘酸っぱいピロシキ!なにかスパイスがきいていている。渋い茶を飲みたくなる。
「あなた、サンクトペテルブルグから来たのでしょう?」
「え」
 最後のひとつに伸ばした手が止まる。
「大丈夫、私たちはあなたの味方よ。アカシ。私たちはここを本拠地にしているの」
「は、話が見えませんが」
 白々しくわざとかたことのロシア語で言ってみた。
「私たち革命志士なのよ」
 にっこりと、深く刻まれたしわが笑った。
「あなたも、きつねに気をつけてね。またね」
 彼女は意味深長に言うと、鼻歌まじりに帰って行った。
 飢えは叔母さんではないから、ピロシキはくれたりしない。
 しかし、老婆はとんでもない情報ととんでもなく美味いピロシキをくれた。
 僕は鍋を抱えたまましばらく動けなかった。老婆の背中は桔梗屋のおっかない奥さんになんだか似ている気がした。

 

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